アメリカ高校

私はオリエンタル

大学の4年生のときに、日本語教育の杉田洋先生に呼び出されて「アメリカに一年行ってくるか?」と言われ、その場で「行きます」と返事をして、確か3ヶ月くらいで渡米しちゃったんじゃなかったかなと思う。

国際交流基金とローラシアン協会という二つの団体が、現地の日本語の先生をサポートをするアシスタントをアメリカの学校に送り込むJALEXプログラムの立ち上げで、36名の日本語教育を学ぶ大学生から、すでに日本語を教えている先生たちが派遣された。

それまでに、アメリカには2回行っていて、1回目は、大学に入ってすぐに母と一緒に母の友人を訪ねてペンシルバニア州へ旅行で。2回目は、高校生のホームステイプログラムの取りまとめ役というアルバイトで、自分自身もホームステイしながらで1ヶ月カリフォルニア州へ。どちらもそれぞれに初めての大きな体験で、今でも続く出会いがあったし意味のある旅だった。アメリカのとてもいいところを見て体験して帰ってきた。

3回目は、いろんな意味で違った。

1年と、期間が長かった。派遣された地域は中西部で、初めて外国人に会った!というような人にも何人も会う環境だった。お給料も派生していて、仕事だったから、お客さんじゃなかった。公立の高校に派遣されて、数ヶ月後には日本語のクラスを毎日2時間持って生活していたので、暮らしがあった。

旅行者の時の私には、誰もがフレンドリーで笑顔を向けてくれるアメリカだったのが(地域差もあったかもしれない)、同僚の先生たちは、初対面はフレンドリーではあるけれど、二回目からはそうでもないこともわかったし、ああ、基本的にはアジア人をバカにしている、または敵対している感じを持っている人が多いのか、ということも高校生たちを通じて感じた。ジェネラルモータースの工場の多いエリアだったから、親がそこで働いていて、日本車の当時の好調な伸びが生活に直接打撃を与えることがあったのかもしれない。初めて外国人に会うという人たちからは、オリエンタルと呼ばれ、中国人の友人と英語で会話をしているときに、なんで自分たちの言語で会話しないの?と、私たちの言語や文化差を認識しない言葉をかけられた。街中の駐車スペースの中には、NO FOREIGN CARS(外国車は停めるな)というサインも見かけたし、授業をしている高校のカフェテリアでランチをしていたら、知らない高校生が後ろを通りながら「Americans Only ! (外国人は出て行け)」と言ってきたこともあった。私に提出された答案用紙に「F●●k You」って書いてあったこともあった。

ああ、私はマイノリティなのだ。差別を受ける側なのだ。自分自身をマイノリティであると、初めて認識した体験だった。

楽しいこと、いい出会い、素敵なこともたくさんあった。でも、マイノリティ体験は大きかった。ホストファミリーと、ともに派遣された36人の同期の人たちのおかげで、なんとか乗り越えられた1年だった。(いろんなことがあったねぇ)

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