見出し画像

生きづらさの普遍的蔓延、承認の格差〜今、私たちが対峙するもの(ミクロ編)〜

私事ですが、後期から休学することにしたサーフェスです!(とは言いつつ手続きに関して何も調べることができていない今日この頃、やらねば。)

前回は「私を中心に社会への関わり方を探索していくSBLってなんぞや?」という話をしていきました。

今回は、では「なぜSBLが次の学びのあり方たりえるのか(長いのでテーマを分けて記述)」という話をしていければと思います。

今回は個人の観点から見ていければと思います!!

※問題を個人の視点から語るとき「個人を変えるべき、治療すべき」というまなざしが入る可能性が多分に含まれてしまいます。次の投稿ではより社会と私という観点で述べていくのでそれまで結論を先延ばしにしていただければ幸いです。

「生きづらさ」

最近この言葉よく耳にするようになった。

だが、よく耳にするようになった一方で「そもそもこの“生きづらさ”って何なのか」という実態は非常に掴みにくいものであるような気がしている。

多面的に解釈できるものであり、そもそもこの概念自体をうまく語り得ないことが「生きづらさ」そのものであるようにも思うが、あえて言うとするならば「セルフ(自己的自己)とアクター(社会的自己)の乖離」にあるのではないかと考えている。

セルフとは、「私である私」を指し、アクターは「様々な社会の中でそれぞれに存在している私」を指している。

私という存在は本来的に存在する場所が異なれば有り様が異なるものである。友人の中での私は陽気に振る舞う私であり、家族の中では寡黙に自室に引きこもる私でもあったりする(これらそれぞれがアクター)。だが、一方でそうした異なる私はあるけれどもその中でも一貫した私がいるように感じるもの、それがセルフであると私は解釈している。

では乖離する状況とは何か。例えば、家庭においては「勉強する私は肯定されるが、私という存在そのものが肯定されえない」という形で。友人間においては「キャラをうまく振る舞う私は肯定されるが、それから逸脱した私は肯定されえない」などという形でその現象は立ち現れる。アクターである私はアクターである限り承認されうるが、セルフそのものは肯定されないのである。結果としてどこまで行ってもセルフが満たされえない状況が生まれるのである。

その社会的状況に大きくされた個人が現実に立ち現れる状態が、いわゆる「自己肯定感・自己効力感の低い若者」であろう。どれだけ他者にうまく振舞っていたとしても「本当の私」ではないというどうしようもない感覚に溢れた結果、“私”そのものに対する自信が喪失し、私が他者≒社会に対して関わる意思がどこにあるのかそもそも掴めなくなるのである。

他にも批判的思考の消失という形でも立ち現れるであろう。アクターとは既存の社会における適合を行うためにセルフから乖離して身に纏う仮面のような存在である。セルフが縮小化し、アクターが肥大化するということは既存の社会に合わせるという行為がメインに置かれるということである。その行為しかほとんど存在しないということはすなわちその社会そのものを前提として置き続けるということとイコールとなる。

そうした社会に“合わせる”行為を続けていった結果に待ち受けるのは社会形成意識の消失である。なぜならアクターとしての私は社会という与えられた状況に対して適合するが、その社会そのものを「問い直し、創り変える」行為を行いえないからである。目の前の現実は変えられるものではなく、「宿命」に基づく“変えられない現実”として立ち現れるのだから。

そうした自己肯定感・効力感を消失し、その状態の前提を疑う力も消失し、その状況を打破するための社会形成の力も剥奪された先に待っているのは永遠に続く承認不安である。自由を許容されながらも、その自由を行使する主体であるセルフが薄まり、結果として常に社会や他者にとっての好ましいあり方を考え“自ら”選択する状況が繰り返されるのである。そこにセルフは存在しえない、自己を“殺す”しかないのである。

今回も少し長くなってしまいました・・・・汗(短く言いたい事を表現できるよう精進します)

今回はSBLの必要性を個人の観点から記述していきました!!次回は「ではなぜ個人はそのような状況に置かれるのか」に関して書いてみようと思います。ではでは!!


いただいたサポートは「katharsis」の活動資金として活用することで、誰もが「感性を解き放てる瞬間」を創り出すことに貢献していきます。ご支援のほどどうかよろしくお願いいたします。