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「鉄腕アトム」と「ローゼンメイデン」②〜孤独なアトム、薔薇乙女の「絆」〜

前回は「鉄腕アトム」と「ローゼンメイデン」を比較し、共通する要素を取り上げた。
今回は、両者が決定的に異なる部分に注目したい。

孤独なアトム、薔薇乙女の「絆」

端的にいうと、アトムは常に「ひとり」でいるのに対し、ローゼンメイデンのドール達は、「お父様」、他の姉妹、そして「マスター」との関係(「誰かはそれを絆ともいう(真紅)」)の中で生きているのだ。

奇怪に聞こえるかもしれない。
人間同様に学校に通い、他のロボットとも交流のあるアトムが「孤独」で、多くの時間を鞄の中やマスターの家の中で過ごすドール達のほうが「関係」の中で生きている、というのだから。
しかし様々な角度で分析すると、アトムがいかに孤独であるか、薔薇乙女達がいかに他者との関係に生きる存在かが顕在化するだろう。

まずは生誕の過程と家族関係から。
アトムは天馬博士が死んだ息子の代わりとして作ったロボットだ。そして、本当の意味での家族はいない。「後から作られた」両親と兄弟(コバルト、ウラン)は確かにいる。しかし彼らはそもそも「創造主」が異なる(アトムの「家族」はお茶の水博士の作だ)し、なにより「天馬博士の息子の代替」という役割、宿命を共有していない。「はらから」がいないという孤独を、アトムは常に抱えているのだ。



ローゼンメイデンは全ての意味で対極にある。
彼女達は同じ一人の「お父様」から作られ、みな「ローゼンの死んだ娘」という役割を担わされ、「アリス」に孵化するという目標を共有している。アリスゲームを闘うライバルとしてではあるが、彼女達は永遠とも思える「孤独」の中でも、「はらから」とのつながり、「絆」を感じて生きている。

アトムは「ひとり」ですでに完全無欠で、ある意味では完璧すぎるが故に「捨てられた」子供である。様々な内的葛藤も含めて「全て持っている」「欠けることのない」存在だからこそ、ギリシャ悲劇の主人公達のように、たったひとりで「運命」に抗う孤高の闘いを強いられている。
薔薇乙女達は「欠けた」「不完全な」存在だからこそ、「ひとり」では生きられない。「何を持っているか」ではなく、「何を持っていないか」で規定される自己。補うために求め、「全」になろうとする意思。自らの欠損を補うために彼女達は姉妹を必要とし、自分が持っていない特性を持つ姉妹達との対比によって、彼女達は自分自身を「知る」。今を生きるため、明日を目指すため、そして自分自身を規定するために、薔薇乙女は姉妹を必要とするのだ。

以上、駆け足で論じてみた。
今回取り上げられなかった「家族以外の社会的関係(アトムと人間及び他のロボット、薔薇乙女とマスター)」については、後日改めて考察したい。

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