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「私たちの歩いた道が、『戦車道』になる」〜メソッドの限界、道という柵〜

「知的生産者」と目される研究者の卵だった頃、「方法論」をないがしろにしてはいけないとよくいわれた。カタカナでいうと「メソッド」である。孵化する前に曠野に投げ出され、「痴的」生活を送る今、「メソッド」の大切さを噛み締めながらも、そこから自由になる必要も同時に感じている。

メソッド=後付けの道

「メソッド method」の語源は、ギリシャ語の「methodos」である。これは「meta(〜の後に、〜に従って)」と「hodos(道)」の合成語。「後から来る人々が辿る道」くらいの意味だろうか。

研究の世界に限らず、僕らは何かをする時にいつでも(知ってか知らずか)先人の道を歩いている。開拓者が切り開き、後に続く者達が踏み固め慣らした道を。そうした先人達に大いに感謝すること。その道を使って目的地にまで辿り着いたならばその事実を銘記すること、自分自身が「先人」になった時、後進が迷子にならないよう、どの道をどう辿ったか地図に残すこと。こうしたことが「メソッド」だと、僕なりに理解している。

「道」とはかくも偉大なものだ。舗装されていない荒れ地では、コーチ(couch=馬車でのエスコート)も訓練(train=牽引する)も用意ではない。すべてを初めから独りでするのではなく、先人の遺した功績に助けられて今の僕らがある。独りでは辿り着けないところへ、「道」は僕を連れてきてくれた。それは素晴らしいことだ。

しかしその一方で思う。いつか僕らは道に頼らず、自分で自分の道を切り拓かなければならなくなるのではないか、と。道とは時に「進ませる」以上に「進ませない」役割を果たす。その道が目指す到達地、「前」に進むことは助けながら、「脇」に逸れること、道が意図しない方角へ進まないよう歩行者を仕向ける装置、「柵」でもあるのだ。

僕らはいつか、法と権威に守られたローマ街道という文明から、ゲルマンの暗い森へと進まなければならないのではないか。この大いなる道から脇に逸れた先、深い森の中に何があるか、誰にもわからない。お菓子の家があるかもしれないし、恐ろしい魔女が待っているかもしれない。道しるべを残したところで誰も追いかけてきてくれないかもしれないし、自分で帰り道を辿ることもできないかもしれない。この道は僕だけに定められた一方通行路なのだ。

そう考えたとき、アニメの台詞を思い出した。

「私たちが歩いた道が戦車道になるんだよ!(『ガールズ&パンツァー』武部沙織)」

僕らの無限軌道は、まだ止まらない。

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