見出し画像

魅惑の女神

上野で飲み歩いたのは、初めてだったかもしれない。
美術館閉館直後はまだ開いている店が少なくて、駅前のバルで休憩がてらカヴァ(スペインのスパークリングワイン)を引っ掛けてから飲み屋街に移動し、ラム肉を食べさせるスペインバルで赤ワインのカラフェをひとつ空けた。
腹が満ちたところでバーに移り、食後酒と葉巻をくゆらせる。ローズマリーオレンジギムレットが羊の脂の香りを和らげ、コーヒーの香るカクテル「エル・ラギート」とアイラウイスキーがキューバ葉巻のアーシーな煙と絡み合う。口の中に広がる香りのハーモニーが店に流れる古いジャズと溶け合い、僕の心を深い瞑想へと連れて行く。

飲んだ割には、頭はしっかり冴え渡っていた。
美術館で出会ったあの女神の印象があまりに強く脳裏にこびりつき、あまりに強く心をとらえていた。

上野公園にある東京都美術館で、『永遠の都ローマ展』を開催している。
ローマのカピトリーノ美術館所蔵の作品を展示する特別展だ。
もともとギリシャ・ローマの文化に興味があったし、三連休の中日(2023年11月4日)で行きやすかったので訪れた。

そして、ひとつの彫像に出会ってしまった。

通称『カピトリーノのヴィーナス』。
名前の通りヴィーナスの全身像だ。

『カピトリーノのヴィーナス』


まず驚かされるのは、その圧倒的な存在感だ。
肌の質感、肉のボリューム感が素晴らしい。
エネルギーが像に満ちていながら均整を保つのは、さすがにギリシャ・ローマ芸術だ。
ちなみにこの像はカタログによれば、紀元前4世紀末-3世紀初頭に小ケフィソドス(有名な彫刻家プラクシテレスの息子)の手になる像が帝政ローマ時代に模刻された、いわゆる「ローマン・コピー」らしい。

理想美を体現しながらも、非常にエネルギッシュで、かつリアルでもある。
裸を男性に覗かれている情景で、身体のエネルギーは内側に向けられる。例えば、お尻の肉すらも力が込められ、内向きにギュッと締められているのだ。こういう細部のこだわりの集積が、この石像を確かなマスターピースにしているのだろう。

しかし、この愛の女神は果たして、自分の裸を本当に隠したいのだろうか?
近くでよくよく観察すると、彼女は自分の手で胸や股間を隠しきれていない。
また、左側から見られているのに、右足を曲げている。普通なら男に近い左足を曲げて股間を隠すのではないだろうか。

エロスというのは、隠すことでかえってエロチックになるという困った側面を持つ。そして女の中の女、エロスの女神ヴィーナスはもちろんそれを知り尽くしている。
つまりこのポージングは、ヴィーナスによって巧みに仕掛けられた「淫美テーション」ではないのだろうか?
21世紀になっても僕ら男は、女神の手のひらの上で踊らされているのかもしれない。

シェリーカスクのアイラモルトの滑らかな甘さとそこから見え隠れするピート臭が、パルタガスショーツのアーシーな煙と混ざり合う。

久しぶりに吉原に行きたくなったが、すぐに思い直した。
生身の女体を抱くには、僕の心はイデアの世界に耽溺し過ぎていた。

ウイスキーを飲み干し勘定を済ませ、バーを後にする。繁華街の喧騒を避けるように地下鉄駅に向かい、電車に飛び乗った。
千代田線が地下から地上の代々木上原まで出てきた頃ようやく、現実の世界に逃げ帰ったような気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?