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【読書記録】『傲慢と善良』

要約:いいからとりあえず、結婚しよう!

 大澤(2008)が定義する「不可能性の時代」とは、私の理解に依ればこうである。「第三者の審級」あるいは「象徴界」の衰退によって自由が規範化され、翻って自由であることそれ自体を強いる「第三者の審級」が発現する。そして、この「第三者の審級」の再帰性に耐え兼ねた人間は、「現実からの逃避」であるバーチャル空間への没入よりもむしろ、「現実への逃避」であるリストカットといった暴力的行為の実行という症状を示す。極端に現実的な出来事や感覚は「これしかない」「これ以外ない」という必然性を有し、「他でもよかったのではないか」「他にもありえたのではないか」という偶有性を排除してくれるためである。大澤は、美少女と恋愛することを目的としたノベルゲームを例に取り、これを説明している。

 さて、小説『傲慢と善良』によると、現代人は「傲慢さ」と「善良さ」を併せ持っている、即ち「自己愛の強さ」と「自己評価の低さ」を同一の人間のなかに共存させているため、婚活に苦しむという。自己愛の強さゆえに自分の価値観に重きを置き、相手が自分の価値観に適うかどうか吟味し、自分が納得するまで結婚に踏み切らない。一方、自己評価の低さゆえに自身でなかなか決断しようとせず、周囲の人や世間体を気にして相手を選んだり、婚活から結婚までの手順を進めたりする。このとき、婚活の相手は高度に記号化されている。自身の価値観に適うかどうかの○×、さらにいえば、何%満足できるかの点数のみが付され、そこには逸れ以上の意味も価値も持たない。そして、この点数の自己評価と他己評価は往々にして自己評価の方が高いために一致せず、なかなかマッチングが成立しないという。

 他者性を有する<他者>とのコミュニケーションを排したこのストイックな記号化の営みは、「現実への逃避」と同定できる。ここで問題となるのが、「第三者の審級」の衰退である。「あなたの価値はこのくらいだから、このくらいの人と結婚するのが良いですよ」と教えてくれる、お見合い結婚は既に廃れてしまっている。フィクション作品やマッチングアプリの広告によって喧伝されるロマンティックラブ・イデオロギーにより「自由に、運命の相手を探せ!」と要請された現代人は、相手の値段の付け方はおろか自分の値札の数字も見たことがないまま恋愛・婚活市場に放り出される。そうして、さらに自分と相手への値札貼りという「現実への逃避」に勤しみ、「これしかない」「これ以外ない」という必然性の獲得を目指す。

 救いのない話のように思えてくるが、必然性を容易に獲得する方法が1つある。この際、誰とでも良いから、結婚してしまうことである。美少女と恋愛するノベルゲームにも多少の分岐はあるものの、ゲームをやり進めるとそこに出来上がるのは自分だけの物語であり、その物語は既にプレイヤーにとっては必然性が付された現実的な経験である。これと同様、結婚してしまいさえすればそれは自分にとって、ただ1つの必然的な現実の物語となる。おまけに親族や友人らから祝福され、「第三者の審級」によって自身の物語を保証してもらうことも期待できる。この必然性や保証には、「他でもよかったのではないか」「他にもありえたのではないか」という偶有性を排除するだけの強さがあると、私は考える。巷に流布する「結婚はノリと勢い!」言説もまた、これを裏付けているだろう。

 『傲慢と善良』が刺さってる人は、いいからさっさと結婚しろ!と思う。「相手がいないんだよ~」「まだ時期じゃなくて~」と泣き言が聞こえてきそうだが、恐らく日本には男女は半数ずついるのだから選り好みさえしなければ相手はいるし、まだ時期じゃないならそもそも焦るな!とも思う。

 「ピンとくる/こない」みたいな感覚はほとんど幻想で、「なんとなく自分に釣り合いそうか」、あるいは「なんとなく性的に好みかどうか」の尺度、もしくはせいぜい体の良い断り文句か睦言みたいなものと措定してしまうのが良い。そして、タイミングや巡り合わせの妙で縁が得られた人と、どのような物語を描くかを構想するコミュニケーションに注力した方が良い。

 今はまだ結婚するには少し早い年齢だから、まだこのように少し他人事で無責任なことを言えてしまう。数年後に同じ本を読んで、自分がどのようなことを感じ、考えるか、楽しみである。



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