自分の中のスキマを大切にしたい
自分の中の可能性あるいはスキマ
note記事を書いていると、
あれ?これはこの前も書いた??
同じようなことを何度も書いているなあ。
そう思うことがある。
〝自分の中に可能性をいつも持っておきたい。〟
このフレーズもたぶん何回か書いている。
繰り返し似たような内容が頭に浮かんだ結果、noteに書いているからには、きっと自分なりにこだわっているのだろう。
これはどういうことだろう?
ちょっと掘り下げたくなったタイミングで久しぶりに浮かんだ言葉が、
『ネガティブ・ケイパビリティ』
焦って事実や理由を求めようとしないでいられる能力
私がこだわっているのはこの能力かもしれない。
この〝ネガティブ・ケイパビリティ〟があるということは、〝知らない〟〝わからない〟というスキマが自分の中に存在して、それをそのまま保っていられることになる。
自分の中にそんなスキマがあることで、思いもよらぬ方向に向かって動き出したり、全く予期せぬ違うところから答えが出てきたりする。
スキマがあるからこそ、自分もまだ見ぬ可能性を維持出来るのだと思う。
スキマなき2つの世界
私はこれまで生きてきて、息がつまる、苦しい、と感じることがたまにあった。
正直なところ今もある。
それは大抵の場合、私の中のスキマを大事にすることが良しとされてない、尊重されない環境にいるとき。
言い換えれば、
常に〝ねばならぬ〟〝すべき〟〝◯◯なはず〟で埋め尽くされている世界。
私が育った環境のほとんどはそんな世界だった。
家は自由のない空間。〝ねばならぬ〟ことだらけ。
当然常に緊張だらけで過ごしづらい時間が多かった。
そして…学校というところもそうだった。
学校のほうがマシだったかもしれない。
私はもっと、わからないこと、まだ知らない私を大事にしたいのに。
知らないことがある。
それはやがて探究心となり知る喜びにつながる。
知らないことが常にある、という謙虚さも持てる。
家庭でも学校でも、そんな大切な時間は許されなかった気がする。
私はこの2つの世界からそんな厳しいメッセージを受け取りながら大人になった。
子どもたちへの願い
そんな思いと共に大人になった今の私。
子どもたちの支援のため、定期的に学校とやりとりがある。
確かにカリキュラムとしてはちょっとずつ変化はしているものの、昔に私が通っていたころとコアとなる仕組みの部分が全く変わってないのが驚きだ。
世の中は大きく変化しているというのに…。
そしてもし今私が子どもで、そんな環境で過ごすことになるなら…
ちょっと想像しただけでもとっても窮屈に感じて、やっぱり息が詰まって酸欠になりそうだ。
それはきっと学校という環境にはスキマが十分ないから。
最近は学校の建物自体も、古い校舎と新しい校舎があって、新しいほうが明るいし清潔感がある。
だけど、なんか違う息苦しさを感じるなあと常々思っていたのは、きっと、あまりに無駄がなくて、効率的すぎて、密閉された空間、と感じるからだ。
スキマがない空間で、隙間なくスケジュールが組まれる。
学校以外の時間、特に家に帰った時、スキマを大事にする時間と空間がないとしたら、自分の中の、よくわからないスキマ部分を大事になんて出来ないのではないか??
ちょっと極端な見方かもしれないけれど、自分の中にどこにもスキマがないとしたら、全てコントロール可能なAIとの違いはどこにあるだろう?
学校って場所が窮屈に感じる。そういう感覚になる子どもはその感覚を大事にしてほしい。きっとそれは大切な自分の中のスキマ感覚だ。
私は学校をとっくに卒業した大人だけれど、やっぱりいつだってあらゆる可能性を持つ、スキマの存在を大切にしたい。
そして、今の子供たちにもたくさんスキマある世界で、可能性とともに伸び伸び育ってほしいと願わずにいられない。
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