見出し画像

絶対。

日々、出来事、体験 

があって、
それによってなんらかの
刺激や反応
思考や感情があって、

それらを淡々と ‘手放す’ 

それを「昇華」とか
「観る」とか「味わう」とか
瞑想と呼ばれているものをとおして
起きていることなのだけど、

限定しない というか
その思考感情から 離れる というか、
そんなふうに ‘手放す’ ということは
いろいろな表現・例えることができるけど

ただ単純に 
手放すと ‘忘れる’ が起きる。

忘れちゃう。
気にならない。
まっさら。

そんな単なるシンプルさに
意味だったり、理由だったり、
重要性を与えたりして、
ストーリー/真実味を持たせて、
「現実」として捉えたりすることもできるけど

もともと、それは絶対でも「なんでもない」

ということに気づき、思い出すと、
もともとの、広がったりだったり、
シンプルさであったり、
解放感や自由を感じることもできる。

絶対 というのは
ある意味においては=不自由さで、
それ以外が見えなくなってしまう固定観念

同時に、その絶対(と捉えている世界観)を
味わいたくて、その「絶対」に
閉じこもっていることもある。

ディズニーランドを楽しんでいる人に、
わざわざミッキーは着ぐるみだとか指摘しても
は?ということでしかなくて、

楽しみ方(味わいたいもの)は
いろいろで、自由で、なんだっていい。

なにが正解も優劣もないのは、
その正解とか優劣のスケール自体が
ふわふわしたものに過ぎないから。

たぶん、その世界観を味わい尽くしたら、
それに こもる=一体化する 
必要性はなくなってしまうから、
その 絶対 と捉えていた大事だったものも 
忘れさっていく。

握りしめていたものがゆるんで、、、
引き止めていた力が消え去って、、、
ただ流れていく。

そういう意味では、
いま絶対と思っていたり信じているものを
ちょっと離れたところから眺めてみて、
これまでとは違う側面にも気づいてみると
味わえるものが広がったりするかも。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?