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孤独

僕が小学生だった頃、周りにはいつも友達がいた。実際は友人では無かったのかもしれないが、その時の同級生が求めているものを持っていた。人を笑わせるのが好きで、色んな遊びや言葉を流行らせた。自作のカードゲームを作ってルールを作り、皆にカードを配っていた。

学校では1番背が高かったし、自覚は無かったけれど、カリスマ性があると言われた。周りには金魚のフンみたいにいつも人が付いてきた。山に入って探検する時なんかは、僕がいつも先頭を歩いた。有り合わせの物だけで釣り竿を作って学校のため池で鯉を釣ったりする悪ガキ。面白いと思った事をなんの躊躇もなく実践して、欲しいものが無ければ自分で作った。周りを巻き込んだ。クラスでは、比較的静かな連中にも声をかけて男女関係なく誰とでも遊んだし、彼らが好きな事をして一緒に楽しんだ。

そんな僕をみて、それを良しとしない連中は陰で僕を蔑んだ。たびたびいじめのような仕打ちを受けた僕は、一人で泣きながら家に帰る事もあった。

体は人一倍大きかったし足も速かったから、そんなやつらをボコボコにする事だってできた。しかし、母親は「あなたは他の人よりも体が大きいから、傷付けては駄目。よっぽど気を付けないといけないよ」その言葉が当時の僕に意味したのは、ただ何も言わずに耐えろ、であった。

ある授業で、グループ発表があって、僕はいつものようにグループの皆の意見を聞きながらも、最も合理的なアイデアで皆を懐柔し、納得の行く内容に仕上げた。しかし、クラスのみんなが評価したグループは、内容ではなくふざけて笑いを取ったグループだった。真剣に取り組んだ発表だけあって、悔しかった。真面目に取り組んだ自分が馬鹿みたいだった。発表者は後ろを向いて、皆からの挙手の 数で優秀なグループを選らんだが、僕だけは後ろを向かず皆を睨みつけた。おい、はやく後ろ向けよ!と言う言葉を無視して僕はそいつらを睨み続けた。

その頃から、周りの人間がみんな幼稚に見え始めた。みんなから嫌われる事を望んだ。小学生、中学生にとって、真偽は関係なく数が多いと言う事が正義らしい。

高校に進学すると、周りの人間と価値観が違う事に絶望した。話の内容、笑いの対象、人間関係の薄さに合わせるほど、精神は強くなかった。トイレの鏡のまえで前髪をいじりながら散髪について語っている二人組に、そんなくだらない事でよく何十分も話し続けれるよな。と嫌味を言った。わざと嫌われるような事を言って孤独になった。難癖をつけてくるやつは胸ぐらを掴んで押し倒してやった。学校一の嫌われ者になった僕は、地元の不良に目を付けられて殴り合いの喧嘩をした。

馬鹿ばっかりだ。

一人の時間が増えて行き、社会を俯瞰したり、物事について深く考えたり、アニメを観たり、熱帯魚を育てたり。タバコを吸い始めたのもその頃。でもやっぱり寂しくて、泣きながら家に帰る日もあった。

猫より暇な高校生活が終わる頃、英語にしか興味が無かった僕は、試験でも学内でトップだったから、外大の推薦だけ受けた。落ちたら、仕事するからどうでもいいか、なんて思い試験の1週間前から過去問に目を通しただけだったが、無事に合格した。

大学には、色んなやつがいて良い出会いもあったし、今の彼女にも会う事ができた。辻仁成の小説は、僕の世界を変え、たくさんの良書に触れた。

学生時代に、社会のせいにして悪者になる自分を許す自分が1番馬鹿だった事に気づいたのは、周りに誰もいなくなってからだった。無理に社会に溶け込む必要はないけれど、それを見下す必要もない。孤独になる事で、人は自分と見つめ合って自分と他者の無知と愚かさに気付く。

価値観の違いは、1つの線上にある点の違いだと思っていた過去。実際には、線は無数に存在し所々で繋がっていた。

人に優しくしようと思えたのは、他人にも僕と同じように世界があるから。孤独になって冷静になると、自分の居場所は自分で選べる事に気付いたし、孤独である事も素晴らしいと思った。自分を守る為に他人を見下す必要も、自分を擦り減らす必要もなかったのに。

孤独と共存する事で、自分の世界が満たされる。孤独を愛する事ができたなら誰かの世界と繋がれる様な気がする。だってみんな孤独だから。

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