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傍観者

ヤフーニュースを読んでいると、〜人が死亡、大規模デモ、BLM、〜人が感染など、もう見慣れてしまったワードばかりが目につく。

行動を起こす起こさないは別にして同情の念を持つのが大方の反応だろう。大変そう、可哀相など。では何も言わずただ冷めたように振る舞うのは悪か。傍観者も加害者と同じ、とはいじめ問題で度々耳にするが、それとは少し違う。僕だってその現場にいるのであればもちろんなにか行動するだろう。問題は、自分の手の届く範囲外の問題について無関心でいる事についてだ。

そんな悪いニュースを読んでいると側頭部の内側に張り付く不気味なやつと目が合う。にやりとわらう彼の口元が視界の隅に映る。傍観者の自分は彼の存在を容認している。

「他人の問題はどうでもいいだろう。興味もないくせに。お前の心は無反応だぞ。会ったことも無い人の死や苦しみに共感なんか出来るわけないじゃないか。」

前までは、自分ファースト、その上他人に興味のない冷めた心の持ち主が大嫌いだったのに、今ではその心を悪人と呼び上手く共存している。だってそうしないとブレてブレて心が大変な事になってしまう。当たり前の事だが、人間には悪の面も善の面もあるのだから、折り合いを付けてやっていくしかない。

自分を正義だと信じてやまない人間が争い。自分に悪の面がある事を認める人間は争わない。

人間は自分が正しく、相手が間違っていると思った途端に暴力的に相手を痛め付ける性質があるようだ。

意見をするのが嫌になってきた今日この頃。どうも最近は社会問題について議論をする意図が分からなくなってしまった。価値観のすり合わせ?もしくは仲間意識の共有などのように思えてきた。それ自体が悪いとは言わないが問題解決に役に立つとはあまり思えない。もちろん多種多様な見解に対する興味はある。しかし、同じ人と日々起こる社会問題について議論するのが果たして建設的な役割があるのか疑問である。それならば、日々の行動を改善してみるとか、困っている人を助けるとかそういった事の方が大事ではないのか。

僕の心は本当に社会問題について無関心になったのかそれとも精神の安定を目的とした防衛本能によって無意識の内に問題を遠ざけているに過ぎ無いのか。

ネットが無かった時代に遡ると、当時の人達はどうやって地球の裏側で人が苦しんでいる事を知り得ると言うのか。それが知らなくても良い事なのかどうかはまた別の話だが。特定の地域の中だけで一生を終える人もいただろう。偏った価値観や、考え方でも生きて行けるのだから悩む必要さえ無かったのかも知れない。だが、現代の人間は良くも悪くも知ってしまったのだから考えない訳にはいかない。多すぎる情報から取捨選択して改善していかなくては、と思う。

結論を言うと、同情する必要は無いが理解する必要はあると言う事だと思う。共感や同情は無理にする事ではないし、僕は正直でありたい。一見すると冷たい人間に見られるかも知れないが、誰の味方をするとか、一緒になって加害者を批判するとかそういった話に興味はない。知らない人の問題は、その当事者間でしか分からない事もあるのだろうから、外野がやいやい言う事でも無い。しかしながら、常に自分に出来る事は何か、何故そうなったのか、何が原因なのか、どうすれば解決するのか、を追求していく事が唯一資本主義社会で人間らしく生きられる術だと思う。

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