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【短編小説】骨まで凍る(8)

「うちの爺さんは大酒飲みでさ。いっつもベロベロに酔っ払うとこの話をするもんだから、僕は子供心に『ああ、爺ちゃんまた酔っ払ってるな』としか思ってなかった。けど、本当だったんだね」
 話し終えた後、しばらくの沈黙を挟んでから山下やましたさんは静かにそう言った。その視線は右手の包帯に向けられている。
 俺はといえば、混乱していた。その話の内容は、あまりにも昨日の出来事と似ていた。
 もう亡くなってしまった、会いたくても会えない家族。追いかける、凍ってしまう…………。
 あの時感じた恐怖がまた戻って来るような気がした。口の中にわいた生唾をお茶で流し込んでから、俺はやっとのことで口を開いた。
「昨日のことは、その、奥さんに……」
「言ってない。言えないよ」
 彼がうつむき、その顔がふっと暗くなる。
「そう、ですよね……」
 俺はそんな質問をしてしまったことを後悔した。言えないのは当たり前だ。亡くなった娘さんのことは、夫婦にとっては一生の宝物であり、同時に消えることのない大きな傷に違いない。あんな体験、話してしまえるわけがないのだ。
 浅はかだった。俺はどんな言葉をかけたらいいのかわからず、自分の膝に視線を落とした。

「なあ、戸田とだ君」
 名前を呼ばれて顔を上げると、座卓越しの山下さんは居住まいを正し、改まった様子でこう切り出した。
「僕の猟具を全てもらってはくれないだろうか」
「え? それじゃあ、山下さんは……」
「僕はね、もう山には入らないよ」

 突然の申し出に、俺は戸惑っていた。
 「猟具を全てもらってくれ」「山には入らない」ということは、狩猟そのものを辞めるということを意味していた。
 山下さんにとっての狩猟は、ただの『若い頃からずっと続けていた趣味』などではなく、『生涯の研究テーマ』と言うべきものだ。彼は猟にまつわる様々なことに常に関心を持ち、研究していた。
 何年にも渡ってフィールドワークを重ね、周辺の山々の地理や植物を丁寧にまとめたノートは俺の教科書代わりだ。「最近はジビエ料理のことも本やインターネットで調べているんだ」と、様々なレシピが書かれたノートを見せてくれたこともあった。
 猟に使っている罠だって、そのほとんどが彼の自作か既製品に独自の改良を加えたものだ。
 それほどの情熱を傾けていたものを、いくら昨日の出来事があったとはいえ、いきなり辞めると言い出すなんて考えもしなかった。

「どういうことですか? それって、猟を辞めるということですか?」
 俺の確認に山下さんがゆっくりと頷く。
「そう。もう山には入れないんだ」
 彼は笑顔でそう言って、体ごと俺に横を向いた。その先には、娘のいぶきちゃんの写真が飾られたテレビボードがある。
「君があの時、僕を止めてくれて本当に良かったと思っている。家内もね、君の前ではああだったけれど、昨日は散々怒られたし、泣かれたんだ。ああ、この人を泣かせてしまった、申し訳ないことをしたと反省したよ」
 首だけ奥さんが先ほど出ていった方に向けながら、彼は苦笑いでそう言った。
 いきなり夫のことで病院に来てほしいと連絡されたのだ。奥さんも昨日はさぞ肝を冷やしたことだろう。
「でもね」
 彼が娘の写真に視線を戻したときには、その顔は真剣なものに変わっていた。
「もし、もしもあの子にまた会えるなら、もう一度抱きしめてやることができたなら、その代償に何だって払ってしまいたい、その思いを否定できない自分もたしかにいるんだ」
 写真の中の愛娘を見つめ、彼は絞り出すようにそう語った。膝に置かれた両手の拳は震えるほど強く握られて、右手の包帯が軋む音がかすかに聞こえた。

 ショックだった。山下さんが語ったのは、「もし昨日と同じことが起こったら、自分がどうなるかわかっていてもまた娘の姿を追いかけるだろう」ということだ。
 もう会うことのできない相手にもう一度会いたい、その気持ちは理解できる。だが、彼が祖父から聞いたという話に照らし合わせるなら、その「代償」はあまりにも大きなものだ。
 それほどまでに、親は子を強く思うことができるのか。もう一度会えるなら、自分が命を落とすことになっても、誰かを悲しませることになっても、たとえその子が本物でないとしても構わないと思えてしまうほどなのか。
 彼の告白は、親になったことがない俺にはとても推し量ることができない、強く、重たいものだった。

「だから、僕はもう山には入れない」
 何も言えずにいると、山下さんはこちらを向いて笑顔でそう言った。
 山に「入れない・・・・」。俺はその言葉に彼の葛藤を感じた。
 おそらく、彼の中で怪我をした自分のために怒って泣いてくれた奥さんへの思いと、愛娘にもう一度会いたいという気持ちは、絶妙な均衡を保った天秤に乗っている。
 もし山に入ってあいつに会ってしまえば、その均衡は昨日のように崩れてしまう。だから、狩猟は辞めると決めたのだろうか。

「山下さん、あの、」
「君が助けてくれたことを、無駄にしたくはないからね」
 俺の詮索を拒否するかのように遮って、彼は笑顔のまま言葉を続けた。
 その辛そうで、困ったようで、なにより申し訳なさそうな笑顔を、俺はこの先ずっと、絶対に忘れることはないだろう。


(続く)


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