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【短編小説】骨まで凍る(2)

「じゃあ、今日から僕が使ってる罠を見てもらいながらね、少しずつ勉強していってください。まあ、僕がやってるのもお手本とは程遠いんだけど」
 山下やましたさんは軽トラックの荷台から年季の入った背負子を引っ張り出して背負った。背負子にはシャベルや工具、ロープといった罠猟に必要な道具が整然とまとめられている。
「よろしくお願いします」
 ついに狩猟免許を取ってから初めての猟期を迎え、俺は緊張していた。
 移住前はごく普通の会社勤めをしていた。趣味でハイキング程度はしていたものの、実のところ狩猟の対象になるような野生の動物になんて会ったこともない。もし、講習会の知識と技術だけで山に入っても何もできなかっただろう。
 寒さに参っている場合じゃない。これからたくさん学ばせてもらわなければ。俺も手にしていたザックを背負うと、彼の後に続いた。


 初めは、以前にキノコ採りで連れてきてもらったルートを歩いていた。見覚えのある道を進んでしばらくすると、山下さんはいきなりそのルートを逸れ、木々の間に分け入っていった。
 驚きながらも付いていくと、彼は上下左右に視線を向けながらどんどん歩いていく。
「本当に獣道って感じの場所を行くんですね」
「だって、僕らは獣を捕まえに来ているからね」
 俺の問いかけにおかしそうに笑うと、彼は続けてこう言った。
「彼らがどこを通って、その先で何をしているのか。それを調べることが狩猟の第一歩だよ。ほら、そこ。わかるかい?」
 彼が地面の一角を指さした。よく見れば、そこだけ土が妙に盛り上がっていた。盛り上がった土は柔らかそうで、スコップで掘った後のようにも見える。
「土が盛り上がっているだろう。そこを掘って、イノシシがミミズか何か食べたのかもしれないね。こういう小さなヒントを集めて、彼らの行動を推理していくわけだよ」
「はい」

 土の盛り上がりや、掘り返した痕。『食痕しょくこん』というやつだ。この他にも山の中には糞や足跡、木に体を擦り付けた痕といった、動物が生活していることを示すサインがいくつもある。
 その知識はあったが、この時までそういう目で周りを見ていなかった。
 これはハイキングではなく、狩猟だ。獲物の生活を分析し、行動を予測し、習性を踏まえ、周囲の植物の生え方や地形を把握した上で罠を仕掛ける必要がある。やみくもに罠を仕掛けたところで、何も捕まえることはできないのだ。
 あれほど勉強したのに、俺の目はまだハイカーのままだった。これでは先が思いやられる。自分でも探せるようにならないと。
「焦ることないよ。こうやって歩きながら周りを見ているうちに、なんとなーくわかってくるものだから。しばらくは僕が罠をかけている場所を一つ貸すから、そこで練習してごらんよ」
 あたりをキョロキョロと見回し初めた俺の気持ちを見透かしたかのように、山下さんが言った。
「ありがとうございます」

 それから、いつものように山下さんの”授業”を受けながら俺は山を歩いた。山にいるさまざまな動物の習性や植物の生え方、見つけた動物の痕跡が新しいか古いかを見分ける方法……次から次へと出てくる山の常識は、まだまだ知らないことだらけだった。



「さあ、ここを下るよ。足元に気をつけて」 
 山下さんはそう言うと、山の斜面を下り始めた。かなり急な傾斜の場所だが、辺りの木々をうまく使いながら危なげもなく降りていく。
 うっかりすると置いていかれそうだ。俺が慌てて後に続くと、彼は少し先で立ち止まって俺のことを待っていてくれた。
「ここからは静かにね」
 黙って頷いた俺を見ると、彼は振り返って斜面のさらに下を覗き込んだ。
「あれ?」
「どうかしましたか?」
「ちょっと、ここで待っていてくれる?」

 山下さんが斜面をさらに下り始めた。およそ70代とは思えないような身のこなしだ。
 今まで俺を気遣って、かなり手加減して歩いてくれていたのだろう。自分の運動能力には多少自信があったが、やはり山を毎日歩いてきた人にはかなわない。
 移住してからというもの、歳を重ねるというのは衰えることではなく、それまでの経験が頭や身体に集約していくことなのだと感じている。
 俺があんな身のこなしができるようになるには、どれだけの経験を積めばいいのだろうか。彼の背中を見ながら、俺はそんなことを考えていた。


(続く)


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