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最近見た映画メモその3〜『市子』『撤退』『Winny』

こんな誰も読んでおらないようなゴミみたいな記事でいちいち但し書きをしなきゃならんというのもアホくさいのですが、シリーズ1本目の冒頭に「原則的にネタバレはしない」と書いてしまった手前、あらかじめお断りをしておかなければなりません。最初に掲げた『市子』のレビューの中ではいちおう致命的なネタバレを避けているつもりですが、物語の核心に触れるような描写やワードをいくつか含んでおりますので、神経質な方は気をつけてくださいね。


『市子』(2023)戸田彬弘※ちょいネタバレあり

「2023年のベスト!」「日本映画の最高傑作!」などなど、公開当時にはもっぱら絶賛コメントが目立った本作『市子』(2023)ですけど、俺はぜんぜんダメでしたね。
まともに取り扱えばそれだけで1本の映画が撮れてしまうような社会問題を節操なくつぎつぎと並べ立てながらもそれらと真っ正面から向き合おうとせず、作り手の側が表現したいスペクタクルのために都合よく動員して搾取する。このやり口を的確に表した一般名詞が今のところ存在しないので、ここでは仮に「社会問題ポルノ映画」とでも呼んでおきますが、過去にボロクソにこき下ろした片山慎三監督の『さがす』(2022)といい、絶賛公開中の『52ヘルツのクジラたち』(2024)といい、俺はこのテの作品にはいまいちノれないわけです。
わかりやすい例を挙げましょう。物語の終盤、姉である月子の介護に疲れ果てたヒロインの市子が姉の呼吸器を外して殺してしまう場面です。ここは、彼女の月子に対する気持ちの揺れ動きを、呼吸器越しに聞こえてくる断続的な呼吸音とその途絶でもって描き出した、映画的にたいへん優れたシーンなのですが、その演出があまりにも優れすぎているがゆえに、介護者の苦悩や葛藤といった要素が単なる「映画的なおもしろさ」に奉仕するものでしかなくなってしまう。安易に取り扱ってはいけないヤングケアラーの問題を、サスペンスを構成する歯車のひとつへと矮小化してしまう。そのことにどうしようもない居心地の悪さを感じてしまうんですね。
さらにこの場面で、市子が月子の呼吸器を外すことによって、われわれ観客は彼女の精神が限界に達してしまったことを「了解」するのだけれども、決して「納得」はできない。なぜならそこには積み重ねがないからです。たぶんこれは本作の選んだ秘密主義的な語り口が原因なのでしょう。市子をフィルムノワールのジャンルにおけるファムファタルとして存立させるために、本来なら必要になってくるはずの日常的な介護の描写をあえて描き落としているわけです。ところが、その描き落とされた描写が欠けているせいで、われわれは市子の苦しみを追体験することができないし、さいぜんも申したように、安易に取り扱ってはいけないヤングケアラーなどのアクチュアルな社会問題を映画的快楽に従属させるはめにもなってしまう。
本作は一事が万事こんな調子で、筋ジストロフィー患者、ネグレクト、戸籍法の致命的な欠陥、母親の彼氏による性暴力、などといった多種多様な社会問題を俎上に載せてはいるものの、どれひとつとして芯を食っておらない。このような作品が陸続と作られ、しかも観客や評論家から優れた社会派映画として大絶賛されている、という事実に悲しいものを感じてしまいました。


『撤退』(2007)アモス・ギタイ

監督のアモス・ギタイはイスラエル出身のユダヤ人。11人の著名な映画監督がそれぞれの9.11同時多発テロを11分9秒の短編フィルムに収めたオムニバス映画『11'09''01/セプテンバー11』(2002)のイスラエル編を手がけた人、と聞けばピンとくる人も多いだろう。イスラエルはテルアビブの市街地で突如爆弾テロが発生、野次馬やテレビのリポーターが駆けつけて騒然とするのだが、ほぼ同時刻に起こった9.11の一報が入るやいなや民衆たちは目の前のテロに対する興味を失い、蜘蛛の子を散らしたように消えてしまう、というブラックコメディだ。ギタイ監督は(おそらくパレスチナ人が引き起こしたであろう)イスラエルのテロをアメリカのテロにぶつけることによって後者を相対化している。「向こうじゃ一度のテロで大騒ぎしとるようだが、うちの国ではそんなもん日常茶飯事なんですわ!」というわけだ。
もうひとつ、最近U-NEXTに入荷した映画に『カドッシュ』(1999)という作品がある。これは、超厳格なユダヤ教コミュニティの伝統と手を携えた家父長主義が、2人の女性主人公を抑圧し破滅させてしまうお話だった。つまり何が言いたいかというと、アモス・ギタイ監督は自身がイスラエル人でありながら、イスラエルやユダヤの伝統を批判したり、物事を俯瞰で見たり、ということがきっちりできる人なのである。そんな彼が本作『撤退』(2007)の中であの「パレスチナ問題」を取り扱うと聞いては期待しないわけにはいかない。
タイトルに付された「撤退」とは当時のイスラエル首相アリエル・シャロンが2005年に行った「ガザ撤退」のことを指す。これはパレスチナのガザ地区に入植させたイスラエル人を追い出してイスラエルに帰そう、という作戦で、ようするに今現在イスラエルがやっているのとはまったく真逆のことなのだけれど、どんな目的があってこんなことをしたのか、じつはよく分かっていないらしい(笑)。映画は20年ぶりに再会した母娘が直後に起きたガザ撤退作戦によって決定的に引き裂かれるまでを、アモス・ギタイ監督のトレードマークであるほぼワンシーン=ワンショットの超長回しでもって映し出す。離れ離れになっていた時間をその長さによって埋め合わせようとする終盤の抱擁シーンや、逃げ惑う入植者と今まさに破壊されようとしている家屋とその模様を中継するテレビリポーターとを流麗な横移動の撮影でとらえたショットなどは、まさしくギタイ映画の真骨頂と言えるだろう。
たしかに本作『撤退』は、イスラエルやユダヤの伝統といったものをフランス在住のユダヤ人である女主人公の視点から批判的に描いてはいる。そういう意味ではまぎれもないアモス・ギタイの映画だと言えるかもしれない。ところがここが致命的なところなのだが、ガザ撤退というのは、あくまでガザ地区に住み着いたイスラエル人入植者たちをイスラエルの特殊部隊が実力行使で追い出そうとする作戦なので、当事者であるはずのパレスチナのアラブ人がスクリーンにほとんど映らないのだ。ようは単なる内ゲバでしかない(笑)。ユダヤのプロパガンダでもなんでもいいから、渦中から見たパレスチナ問題を見せてほしかった身としては大いに肩透かしを食ってしまった。
ただし、クライマックスにはこんな一幕がある。シナゴーグに集ったユダヤ教の信徒たちが、立ち退きを迫る特殊部隊を無視して祈りを唱え続けるくだりだ。「俺たちは元からこの土地に住んでいるんだから、今さら出ていけなんていうのはどだいおかしな話だろ」という言い分を経典の祈りに託して語っているわけだ。これはまさに、イスラエル人がパレスチナの土地にやってきて好き放題やっているのとまったく同じ原理ではないか。アモス・ギタイはこの信徒たちの側に批判的な眼差しを注いでいる(ように見える)。若干の不満は残るものの、本作『撤退』はパレスチナ問題をストレートに描くのではなく、「イスラエルvsイスラエル」の内ゲバという構図に移し替えて描いていた。


『Winny』(2023)松本優作

「薄暗い部屋の中でスクリーンからの照り返しを浴びながらキーボードをカチャカチャ叩いている」絵面でもって有害なパソコンオタクを表象してしまうとかいう、テレビがネットのことをやたらと敵視していた時代のマスメディア人みたいなカビ臭いセンスだったり(これに関しては物語の舞台がゼロ年代だから仕方ないという言い訳もできる)、煩雑なテクニカルタームを観客に飲み込ませるために用意されたバカの役が女性だったり、関西弁の演技指導があまりにもひどすぎたり、などとツッコミを入れようと思えばいくらでも入れられるのだけれど、そういう瑣末な点にさえ目をつむれば本作『Winny』(2023)はなかなかによくできた作品なのではないだろうか。
本編を見終えて真っ先に感じたのは、いい意味での「邦画らしくなさ」だった。学芸会的な役者の演技、ライティングの概念を完全に無視した安っぽい撮影、目で見れば一発でわかることをいちいちセリフで説明する脚本…といったいわゆる邦画的な要素がこの映画の中にはあまり見られないのだ。とくに画面作りの点が出色で、この松本優作という本作の撮影当時まだ20代だった監督は、決して安っぽくはないショットを無難に撮り、それらを物語のノイズにならないレベルで無難につないでみせる、ということを何気なくやってのけている。もはや褒めてんだか貶してんだかわからない表現だけど(笑)、めちゃくちゃ褒めてます。これができない映画監督のなんと多いことか。
エンドクレジットが流れ、金子勇本人が画面に映し出されたところで俺はけっこうびっくりしてしまった。それはもちろん、(恥ずかしながら)伝聞でしかその存在を知らなかったWinnyの開発者とはじめて対面したことによる驚きでもなければ、劇中で金子勇を演じていた東出昌大が思いのほか本人と似ていたことによる驚きでもない。「一個人を題材にした現代ものの史実映画を日本人の監督が撮ってこなかった事実」にあらためて気付かされた、そういう驚きだったのである。
現代の日本には濱口竜介や三宅唱などの、日本映画離れした画面が撮れてしまう人材はいくらでもいるかもしれない。なんだけど、彼らが撮るのは往々にして、狭いコミュニティの内部で繰り広げられる内省的なお話だったり、あるいは身も蓋もない言い方をしてしまえば「われわれ観客の生きる実社会とは微塵も関係のない映画」だったりする。それらとは対照的に本作『Winny』は、金子勇という確かに実在した人間の生きた当時の社会状況や空気感、彼を取り巻いていた人間たちの悲喜こもごも、著作権法やデジタルの技術についてあまりにも無知すぎた日本の司法制度、などといったものをスクリーンの上に現出せしめようとしている。そしてその試みの大部分は成功しているように見える。海の向こうのアメリカやなんかには掃いて捨てるほどあるこのテの映画、じつは日本にはあんまりなかったのではないだろうか(あったら教えてください)。
俺はこの「技術面における邦画らしくなさ」と「主題論的な邦画らしくなさ」の二点でもって本作を擁護したいと思う。松本監督の次回作が今から楽しみでならない。

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