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雑多

雑多なこの部屋の中に、無数の私の残像がたしかにそこにある。

生活における雑多について、論じたエッセイを読んだ。生活に溢れている雑多と呼ばれるものは、誰かがそこに存在したことの証でもある。
複雑な自分の脳内を部屋に例えるなら、きっとこれもはたまた整備されておらず収納スペースの少ない1Rなのだろうか。

何に使ったのか思い出せない輪ゴム。コンセントに差したままのヘアアイロン。しっかりとシワを伸ばしてあるお気に入りのシャツワンピ。机に置かれたドラッグストアで貰ったいつか使う為の紙のクーポン。床に落ちているまだ畳んでいない衣服。作り置きの料理を丁寧に入れた積み重なったタッパー。乱雑に入れられた野菜。冷蔵庫に丁寧に貼ったマグネット達。乾いているのに干されたままの靴下。コーヒーを飲んだ後、流し台に置かれたままのマグ。装丁の色ごとに棚に並べられた単行本たち。役所から届いた未開封の封筒。綺麗にファイリングしてまとめたが開くことの無い書類。開封済みで飲みかけのペットボトル。飲み口と底までしっかり洗って乾かしてある水筒。ダイニングテーブルの下に忘れ去られたままのスリッパ。薄汚れたアイシャドウケース。指紋の付いた鏡。寝て起きたままのベッド。


ところで今更ではあるが「雑多」とは「雑なもの」を表すのではない。

雑多(ざった)一[名・形動]いろいろなものが入りまじっていること。また、そのさま。

goo辞書


これら全て私自身の軌跡であり、私が確かに存在していた。全てに異なるストーリーが垣間見える。
行動の終着点であることも、経過点であることもある。
雑なものばかりというわけではなく、節操ない羅列の中に垣間見える、拘りある一定の整備されたリズムや周期性がそこにはあったりなかったりする。

私はこの「雑多」に対して、半分の「安堵」と少しの「軽蔑」と「愛しさ」を感じるのだが、
これら全て自分自身を構成しているものであり、その物たちが私が私であることを映す。

私が「雑多」に対して、半分の「安堵」と少しの「軽蔑」と「愛しさ」を感じるのは、
「人間のナチュラルな部分を感じることによる安心感」、「なんとも言い難い同族嫌悪」、「無垢な自分を本当は認めたいという愛」から来るものなのだろう。


SNS。偏向報道。消費者の不安を煽り、新たな欲望を生成する広告。ファッション化してゆく芸術。写真映えに特化した飲食店。いわゆるコト消費。パーソナライズされた検索エンジンによってフィルターバブルが私達を埋もれさせ、その泡に溺れる様を喜ぶ資本家。

意味記号を消費し続ける私達は、何層にも塗りたくられたフィルターを剥がすことをもはや望んでいるようでいないのだろう。

どこかで漠然とした不安や、プレッシャーを感じながら、流れてきた波に赴くままに身体を預ける一時的な快適さは言うまでもないからである。


私が、私の部屋に溢れる雑多なものに安堵を感じるのは、根底で漠然とした不安やプレッシャーから来るものである。
ただその雑多なものというのも、結局言うところ生活感のあるものということに繋がる。


自分自身を良く見せたいが為に、自分自身の気持ちや信念へベクトルを向けられた価値基準ではなく、
外部や他者やステレオタイプへベクトルを向けられた価値基準の下にフィルターを重ねて武装して満足する。
ハリボテの姿に一時的に快適さを覚えるものの、何故か完全には満たされない何かが存在する。

ふと自分の部屋に脱ぎ捨てられているTシャツに視線を移すと、そこには飾らないノンフィルターの無垢な私の姿がある。
自然体への原点回帰と言うべきか、なんとも言い難いあたたかさを感じる。

少し話の論点がズレてしまうが、
雑多に並んだもの等がフィルムカメラによって撮影されることで味気が出て、なんだか良く感じるのは、いわゆるパターン化された“エモ”と呼ばれるものだと感じる。ファッション化された雑多など、複雑な思惑がそこには在る。
それをよく思わない人も一定数いる。

だがしかし、
人間としての雑多なナチュラルなものへの愛着心・回帰性などの純粋な気持ちが、根底にはきっと付随しているのではないだろうか、
と弱気ではあるが信じたい。


雑多で一貫性のない整備されていないと自分が判断したものに対して、
同時に嫌悪感を抱いてしまうのはこれもまた理想や偽りとのギャップから生じるものである。


隣の芝が青いのはきっと見間違いじゃない場合もあるし、
でも実はみんなが言う「普通」ってなんだかんだで実際は多分真ん中じゃなく理想に近いし。

ただただ自分で自分を陥れて勝手にヒートアップするか、逆にどんよりしてしまうような種類の嫌悪感で、かなしい。
そしてそういった時に、他者から認めてもらえてもなかなかそれを受け入れられないことがよくある。

祖父母の家にあった調律の合っていないYAMAHAのアップライトピアノを弾いていた子供の頃を時折思い出すことがある。
叔母がピアノを習っていた時に買ったものだと確か聞いたので、長い間大した手入れもされていなかったのだろう。

音程が少し気持ち悪いと思いながら弾いてみても、そんなこと露も気づかないおばあちゃんやおじさんは、いつも心地良さそうに私のピアノを聴いてくれ、そしてよく褒めてくれた。

不安定なメロディーが響く。


調律が合っておらず、またピアノ長年習ってきた他の友達と比べて、ピアノ歴の浅い私はコンプレックスがあり
「別に全然良くないよ、何も分かってないくせに」と子供ながら拗ねたりしていたものなのだが。


このときから今も変わらず、
自分以外の誰かから認めてもらったり受け入れてくれるという幸せを蔑ろにして、世間一般と言われる価値基準に固執していたのかもしれない。


しかし雑多なものに対して安堵と似たような、愛しさを感じることもある。

コンセントに刺さったまんまのヘアアイロンも、朝起きて頑張ってヘアセットして少しでも綺麗になりたいと家出る直前まで努力した軌跡だと思うと、その行動自体は愛らしいと思える。
衣服を畳んでいないくせに、コレクションのマグネットは冷蔵庫に丁寧に並び替えて貼ったり眺めたりしているのも、好きな物に対する愛着心を感じてほっこりしたりする。

完璧な人だと思っていたら、
そんな人が意外とセーターに毛玉が付いていたりすると安堵するし、なんだか愛らしく思える。
それと似たようなことである。


角田光代さんと小島慶子さんの対談を読んだことがあるのだが、その際小島さんは


私も人間みな同じとか、人間は分かり合えるとか、幻想は一切持っていないんです。でも、子供を見てて思ったんです。教えてもいないのに、邪な心もやさしさも持っていますよね。人間って標準装備として、いろんな感情を萌芽のように持っている。それが何かの条件下で、表出してくるかこないか。これは薄皮一枚の差なのかなぁと思うんです。そういうことを念頭に置きながら、こんな人いるかも知れないなぁ、と思いながら小説を読むんですけど。

『それもまた小さな光』角田光代
あとがき 小島慶子とラジオ対談より


私にとっての「雑多」とは、半分の安堵と少しの軽蔑と愛しさによって構成されるのだが、
軽蔑の部分がどうしても浮き彫りになってしまうことが多々ある。
安堵と愛しさがこんなにもあるというのに、自分自身で勝手にその軽蔑を膨らませてしまう。


私自身の、私自身を構成する無垢なものに対して、無添加な愛を注ぎ続けることが、自分自身を認めることになるのだろうか。
それも私であるのだと。また期待しすぎてしまう他人のギャップもその人自身のナチュラルな一面なのだと。
ナチュラルな部分を受け止めることが今の私には必要なのだと思う。
ナチュラルで美しい日々を大切にできるようになりたいと思いながら、ストロング缶を飲んでいてよくわからなくなる。

ペシミズムに支配されて負けそうな時には、
起きたままヘアセットしていない芸術的な寝癖を思い出して、ほっこりできるぐらいにはなりたいだけです。
それだけです。雑感ですが。



取り込んだ洗濯物は後で畳んでおくね。


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