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雑草や虫と楽しむ庭づくり 〜直接役に立つかどうかだけ見ていると失ってしまうことは多い〜

私が幼かった頃、空き地の野原や畑の畦道に生えている草たちは素敵な遊びの道具だった。

ままごとをするなら、古びた茶碗などを畑の脇に持参するだけで、赤まんま(イヌタデ)やオオバコの実を茎からしごいて取ればご飯になったし、お箸やお金など他のままごと道具もその辺に生えているものや落ちているものを使えば足りた。

白詰草やレンゲ、ジュズダマがあるところでは、それを編んだり繋げたりして冠やネックレスにもした。平らな葉っぱはブーブーと鳴る笛にもなったし、笹があればそれは舟になった。

一歩外に出れば、そこにはタダで手に入れられるおもちゃやアクセサリーや楽器のある宝の山が広がっていた。

少し前から、今は亡き義父が管理していた庭を夫と二人で手入れしている。

夫は虫が大好きでコガネムシやカブトやクワガタやセミまで、しょっちゅう拾っては家に連れてくるような人だ。今年はなんと家の中で4羽のセミが羽化した。(台風の風で死にそうだったので保護したらしい。)そんな夫から、なるべく虫や虫の食べ物となる草などを大切にする庭づくりをしたいとの希望があった。

私自身もなるべく不自然なことはあまりしたくないし、ハーブが大好きで、植物から取れた精油を使うアロマセラピーに日々助けられている者として、草や土に薬をかけたりするなどはできるならやりたくない。この提案には大賛成だった。

しかしある時、刈るのではなく根から草取りをして、しかも土を掘り返したところから、今までより硬い草が生えて来てしまった。明らかに今までのその土の上のバランスを崩してしまったようだった。

「何かが間違っているのかもしれない、でもどうしたらいいのだろう。」と途方にくれていた私たちの前に、このような本たちが出現した。

雑草と楽しむ庭づくり」「虫といっしょに庭づくり」「無農薬で庭づくり」(共に築地書館   ひきちガーデンサービス  曳地トシ・曳地義治著)である。

長年、植木屋としてオーガニックガーデンを作ってきたお二人の、雑草や虫と上手に共生しながら手入れをする知恵の宝庫のような本だ。先駆者がいるというのは、なんとも頼もしくありがたいことか。

これらの本を読むと自然界には一切無駄ということはなく、全てが完璧なバランスで成り立っていることが分かる。

人間に出来るのは、なるべく余計なことをしないことくらいである。そうは言っても手つかずにしていたら、人の目から見たら荒れた庭になってしまうかもしれない。それはそれで庭としての存在意義がなくなってしまうことになる。

だからここには雑草や虫の特性やそれぞれの繋がりについて知ることによって、必要最小限の手入れで居心地の良い庭をつくるヒントが、満載されている。

「雑草と楽しむ庭づくり」に、このような文がある。「直接人間の役に立たないものであっても、私たちは雑草に生えてきて欲しいと思う。何故なら「役に立つ」という視点より、もっと大きな目で見れば、生態系を豊かにしてくれている大切な仲間だと思えるからだ。」

今まで私たちは庭や畑を作る上で「見た目が美しいのか、食用になるか、薬用になるか」など、人間に直接役に立つかどうかを基準に、何かを増やしたり排除して減らしたりしてきた。

しかし、虫の中にはウドンコ病やアブラムシを好んで食べるものがいて、それらの虫はそれより大きな虫や鳥小動物の餌となり、それらは更に大きな動物の餌となる。だからウドンコ病やアブラムシを完全に排除してしまうと、巡り巡って動物の餌がなくなる事になる。

私たちには一見無駄に見える雑草も、アルカリ性や酸性の土を中性にしてくれたり、虫や小動物の隠れ家になったり、強い根で土を柔らかくしてくれたり、張った根で土をしっかりさせてくれたりしている。酸素だってたくさん作ってくれているのだ。

このような視点で見ると、人間の浅知恵などとても及ばない自然の叡智にこうべを垂れるしかない。

人間の役に立つかどうかというのは、極めて近視眼的なことであり、人間にとってもいずれは役に立たないどころか害を及ぼす結果を招いてしまうということだ。

都市部においては「役に立つ」宅地や駐車場などを増やしコンクリートで埋めた土地が増えた結果、最初に書いたような空き地の野原や畑の畦道も近頃はすっかり減ってしまった。子ども達は宝の山を目にすることもほとんどないのかもしれない。

本には、ジュズダマが絶滅危惧種だと書かれていて、とても悲しくなった。もうあのネックレスは作れないのだろうか。

さて、今日も庭に出ようと思う。なるべく余計なことをしないようにしながら。

(一部文章を書き直しました。)






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