見出し画像

今日ときめいた言葉133ー「日本人」とは何か。

(2024年4月10日付朝日新聞 「『日本人』を決めるのは」から)

「日本人とは何か。それは定義不能で、問題設定そのものが虚偽だと思います」(社会学者 福岡安則氏の言葉)

福岡氏は、定義可能なのは、国籍法による「日本国民」だけであると言う。それなのに日本人の多くは自分は典型的な日本人だと思い、自明のように「日本人」という観念を持っている。

この観念を「血統」「文化」「国籍」の要素で類型化すると三要素が全てそろった「純粋な日本人」の他に、いずれかの要素が欠ける人々がいる。日系移民1世、帰国子女、帰化した人、中国残留孤児、在日コリアン、アイヌの人などなど。

この要素の中で明らかに重視しているのは「血統」である。それは、ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎さんら3人が、米国籍を保持する米国人なのに「日本人」としてカウントしていることからもわかると。メディアも政府も同様の扱いをしている。だがこの「血統」は、生物学的概念というより「血統意識」にすぎない。

日本列島にはさまざまな人が渡来し混合してきたことを思えば、純粋な「日本民族」は存在しない。本質的な「日本文化」を定義するのも不可能である。このような血統意識が外国ルーツの国民を長い間、排除、差別してきたのである。三要素がそろった多数の「日本人」は、少数派の「日本人」差別に加担してきたことに気づかずにいると。

マライ・メントライン(著述家・翻訳家)さんもそう感じる1人だ。よくコメンテーターとしてテレビで見る方だ。日本に暮らして17年、永住権も取得していて日本の未来に責任を持つ一員との意識があるのに討論番組での役割はいつも「外国人」だと苦言を呈している。もっと「日本人とは何か」について議論すべきであると。そして、ドイツでの慣例として国民への呼びかけについて紹介しているー

日本では首相が「国民の皆さん」と呼びかけるのに対して、ドイツの政治家は「Mitbürger」という語を使うそうだ。「国に共に暮らす人々」といった意味だとか。

この言い方だと日本での彼女のような立場の人も含まれる。日本にはない言葉、概念だけどいつかできるといいと述べている。


以前にも書いたけど、私は日本人という観念にはこだわらない。自分の中に多くの人が抱いている「日本人的なもの」(実態は何かわからないが)があるとしたら、日本での家庭生活の中から体得した経験や感情、学校教育で刷り込まれた意識、中には自分自身が良いものとして進んで吸収したもの。そんな断片の蓄積だろうか。そんなもので日本人だという気はない。

だから元首相の「美しい国日本」とかことさらに日本人や日本文化を強調する発言に居心地の悪さを感じてきた。

アメリカでの生活が長くなったうちの三人娘もそんなふうに感じている。特に「日本人たれ」と教育したこともないが、時々「日本人」が言いそうなことを口にして驚くことがある。教えなくても心の奥にはボヤーとそんなものがあるんだろうな。そんな曖昧なものなのだと思う。


でも次の言葉には心打たれる。

「人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。

日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い<書き言葉>の伝統をもった日本語なのである。

(「日本語が滅びるとき」ー英語の世紀の中で 水村美苗 著)


この記事が参加している募集

今月の振り返り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?