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「叱るだけでは人は学ばない」ー臨床心理士の言葉から・・・。

「叱る」ことについて、以下の記事に書かれている知識を知っていたら自分の中で何かが変わっていただろうか、と考える。子供と関わっている時は、叱られる側の子供のことも、叱っている自分のことも振り返る余裕がなかった。でも罪悪感が心に残っていて、叱った時のことを話してみると、案外子供って覚えていなかったりする。結構子供もたくましくて(いや、ずる賢くて、かな?)、かる〜く聞き流していたりするのかも?

今さらながらであるが、子供の心の傷になっていなくてよかったと思うこと、しきりである。その我が子が人の親になって子供を叱りつけたと聞き、たしなめると「叱る時はキッチリ叱らないと。お母さんがしたように」などと反論されてしまう。何年もたって子供に理解してもらえたような気分になった(グスン😂)

2022年9月16日付 朝日新聞「なぜ叱ってしまうのか」臨床心理士 村中直人氏へのインタビュー記事を読んで学んだこと。

「叱る」ことには依存性がある。

叱ることで子供が自分の言葉に従うという「自己効力感」が得られ、また悪いことをした人を罰したいという「処罰感情」も満たせる。この二つの快い感情が得られることで叱ることに依存性が生まれる。人間が毎日のように続けている行動は、習慣か依存のどちらかである。

❷叱ったことへの後悔は快い感情ではないはずなのに、また叱ってしまうのは?

「後悔」は、してはいけないことをしてしまったという二次的な感情である。一方で処罰感情は生まれながら持っている欲求である。生来的な欲求は二次的感情にまさっているので、叱る行為はやめられない。

叱ることの効果と限界を知ろう。

親は「教育的効果がある」と思っていても、子供の学びにつながっていないことも多々ある。命の危険や誰かを傷つけるような行為をやめさせるには、叱ることが一番効果的である。また子供が同じ行為で叱られないように自らを自制するようになる抑止効果もある。

人間は不安や恐怖を感じると知的な活動に重要だと考えられている脳の前頭前野の活動が大きく低下する。親は叱ったことで子供が学んでくれたと思っていても、子供はその場しのぎで対処しているだけかもしれない。叱ることに行動を修正する効果はあっても、根本的な意味はない。

叱るという行為は、人が学んだり、成長したりするという点では、ほとんど意味をなさない。叱るという行為は、権力を持つ側が、弱い立場の人に行うという前提条件がある。叱る側の理想を押し付けられても、叱られる側には恐怖や不安といったネガティブな感情しかわかない。

感情的な「怒る」と論理的な「叱る」は違うという人もいるが、叱られる側にとっては同じ。相手の行動を変えたいなら、叱らずとも、「諭す」「説得する」といった方法がある。

「叱る依存の落とし穴」にはまらないように。

叱ることの最大の問題は叱ることがやめられなくなることだ。つまり叱ることに依存してしまうこと。叱ることがやめられなくなった延長線上に虐待やDVがある。叱ることで、何らかの生きづらさを癒そうとしているのなら、誰しも依存する可能性がある。

虐待やDVの加害者には叱る依存という概念が受け入れにくい。相手のことを思うからこそ暴力を振るうという心理状態にあり、悪いことをしていると思っていない。そういう人は医療や公的支援が必要である。

叱るとどう向き合うか。

叱ることを我慢するとストレスがたまり、余計にやめられなくなる。叱るを「我慢する」ではなく「手放す」!!!具体的には:

・叱られる相手が行動しない理由を見極める: 「できないから」なのか「しないから」なのか。できない場合は「この子は50%しかできないんだな」と考えるだけで、違う世界が開ける。

・どんなサポートがあれば、「できない」が「できる」に変わるのかを考えてみる。叱る、叱らないではなく、新しい方法を試行錯誤するうちに気づいたら叱らなくなっていた・・・が目指したい姿である。

叱るを手放せたら社会は変わる。そのためには「人は叱られ、その苦痛から学んでこそ成長するという『苦痛神話』から脱却すること」。

人は叱ることに依存する。でも叱るだけでは人は学ばない。これが社会の常識としてインストールされればもっと生きやすい世の中になる。

この「叱る」の考え方は、子供に対してだけではなく、会社や地域など公の場においても通用するものであるという。パワハラ、誹謗中傷問題を考える時にも役立ちそうだ。


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