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今日ときめいた言葉82ー「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」

(2023年10月8日付 朝日新聞 日曜に想う「歴史に向き合う用意はあるか」記者 有田哲文氏の言葉から)

下記の記事は、朝鮮人虐殺にかかる松野博一官房長官の発言について衝撃と羞恥心を持って書いたものだ。

この記事「歴史に向き合う用意はあるか」は、不都合な歴史に対する我が国の政府とドイツ政府の向き合い方の違いについて、それぞれの政治家が発した言葉を通して書かれたものだ。

都合の悪い事実に対する日本政府の答弁の定番は、

「記憶にございません」

森友・加計問題では、

「記録はすでに破棄した」

そして、関東大震災における朝鮮人虐殺では、

「事実関係を把握できる記録が、政府内に見当たらない」

(歴史の教科書にも載っているし、当時の司法省のまとめた記録もあるし、国会図書館で閲覧もできるというのに、である)

かたや、ドイツの大統領ワイツゼッカーの言葉。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」

この言葉のとおり、ドイツは一貫してユダヤ人に対する蛮行を断罪、克服しようとしてきたように思われるが、実際は紆余曲折があったようである。「もう終わりにしたい」という世論と「一層の追求を求める」という世論のせめぎ合いがあったという。結果として、後者がまさり、時効は撤廃され、ナチスの犯罪は今も裁かれているという。

ワイツゼッカーだけではなく、ある首相は次のように語っている。

「民族には自らの歴史を冷静に見つめる用意がなければなりません。なぜなら、過去に何があったかを思い起こせない人は、今日何が起きているかを認識できないし、明日何が起きるかを見通すこともできないからです」

朝鮮人虐殺についての実態は、戦後研究者や市民の努力により公文書や証言が集められ明らかにされてきた。そして今年の秋、神奈川がまとめたとみられる資料を元に資料集が刊行されている。この資料の共同編者の言葉。

「記録は存在するし、おそらくこれからも出てくる。政府はいつまで、知らぬ存ぜぬを通すつもりなのか」

過去の不都合な歴史に向き合えないこの国の政府に、そして謝罪を忌避する姿勢に、恥ずかしさを覚える(もっと言えば、日本の政治家の言葉に、ドイツの政治家の言葉に感じたような良心や倫理観や知性を感じたことがない。国民として彼らの言動が誇らしいと感じたことは一度もない)


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