創作童話『円』
ある朝目覚めると、一つの球体が僕の部屋にふわふわと浮いていた。
ベッドから少し離れた、部屋の隅にある本棚を覆い隠すようにして、その丸は静かに浮いていた。
狭い部屋なもんで、身体を起こすとちょうどその丸で視界がいっぱいになるほどの近さだった。
僕は特段、驚きもしなかった。
とてつもなく大きなその丸は、白くてツヤツヤと輝き、ボールとも風船とも言えない、奇妙な気配がした。
「おはよう。」
もしかして生き物なんじゃないか、と思って声をかけてみたが、球体は返事をせずにふんわりと浮いたままだ。
僕は白い丸を無視して、朝食を済ませて身支度をした。
外へ出るために玄関へ向かおうとしたが、その瞬間、なんと球体はスイと移動したかと思うと、僕の前に立ちはだかりドアをふさいでしまった。
これでは外に出られない。
「どいてくれよ。」
そう言ってみたものの、球体は黙ってドアの前に浮いている。
息を吹きかけてみたり、手で仰いだりしてみたが、球体はぴくりとも動かない。
困り果てた僕は、いっそそいつを蹴り上げてやろうかと迷ったが、なんとなく得体の知れない白い丸には触れたくなくて、仕方なく勤務先の書店に電話することにした。
その前に、冷蔵庫を確認した。
昨日、買い出しに行っておいてよかった。
今日明日は持ち堪えられる。
書店に電話をかけると、同僚の高木さんが出てくれたので僕はホッとした。
店主は無愛想で、特に出勤に関することには厳しかったので、なるたけ話したくなかった。
「すみません、体調不良で、三日ほどお休みをいただきます。」
高木さんの声からは心配そうな様子が伺えた。
私から伝えておくのでお大事に、と言って彼女は電話を切った。
さて、どうしたものか。
いつのまにか球体は、今度はベッドの上に浮いていた。
こいつと、少なくとも明日まで、この部屋で過ごさなければならない。
言葉は発せずとも僕の行手を阻む、忌々しい白い丸。
けれども不思議と、怒りは湧いてこなかった。
元々出不精だし、一人で過ごすのは好きな方だ。
攻撃してくるような気配のない、無害な球体が部屋にいるだけ。
それだけのこと。
本棚の前が空いたので、僕は読書をして過ごすことにした。
お気に入りの冒険小説を手に取ると、僕は読み耽った。
いつの間にか夜になっていた。
その晩は、夢を見た。
僕はお気に入りの万年筆で、ノートにひたすら円を描いていく。
大小さまざまな円を、ひたすら描き続ける。
それらはぴょこん、とノートから飛び出すと、僕の周りでふわふわと浮く。
割れないシャボン玉のようだ。
僕は円たちと遊ぶ。
やがて円の数が増えすぎて、僕は押しつぶされそうになる。
息が苦しくなったところで、目を覚ました。
起き上がって部屋を見渡すと、白い丸はやはり、昨日と同じように本棚の前でふんわりと浮いていた。
夢でも現実でも丸に悩まされるなんて、どうかしている。
一体こいつはなんなのだろう。
もしかして、僕の不安の表れ?
どうかしてしまったのは、僕なのかもしれない。
それとも希望だろうか?
なにしろツヤツヤと輝いているものだから、不穏なものにはどうしても見えない。
終わり方こそ最悪だったものの、夢の中でも丸は楽しい存在だった。
いやいや、やっぱりこいつは敵で、夢のようにこの部屋いっぱいに数を増やして、身動き取れなくするつもりかもしれない。
それか日増しに大きくなって、僕を覆い潰す気なのだろうか。
それでも構わないや。
僕はそんな気持ちだった。
不安だろうと希望だろうと、どっちだっていい。
なにしろ僕は、その頃すっかり滅入ってしまっていて、色んなことがどうでもよくなっていた。
特別嫌なことがあったわけではない。
ただ、滅入っていたのだ。
滅入っていても、お腹は空く。
僕は朝食の支度をしてコーヒーを淹れた。
ご自愛、とでも言うのだろうか。
そんなこんなしているうちに滅入った気持ちも少しは楽になるものだ。
その日は一日中、ゲームをして過ごした。
白い丸は特に邪魔をするでもなく僕のそばでふんわり浮いて、様子を見守っているようだった。
食糧がそろそろ底を尽きそうだった。
明日になったら、あの球体をどうにかして外に出なければならない。
針で刺そうか。
そしたら破裂して、きっとしぼむはずだ。
なんとなくそんな気がした。
それとも、中から何かが飛び出してくるだろうか。
大量の虫とか。
そんなことを考えているうちに、僕は眠りについた。
翌朝目覚めると、そこにいるはずの白い丸の姿がなかった。
家中歩き回ってみたが、僕の行手を遮るものは何もない。
白い丸はどこかへ行ってしまい、跡形もなかった。
本当に、なんだったのだろう。
しかし、日常を取り戻せた僕にとって、白い丸は次の瞬間にはどうでもよいものになっていた。
もういなくなったのだから。
僕は身支度を整え、幾日かぶりに外に出た。
そして、秋晴れの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
おしまい
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