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心が豊かだったころ

今さらなのだけれども『線は僕を描く』を読んでいる。
水墨画をテーマにしたお話だ。

過去の経験からまだ立ち直れていないために食が細くてすぐやせがち、意識が別の世界に向かいがちな青山くん。
あるきっかけでその世界の巨匠から直々に水墨画を習うことになる、という流れ。


まだ半分ほど読みすすめたところなので、この後の展開はどうなるかわからない。
けれども、書道をかじっていたわたしにとってはなじみやすいお話だ。墨の香りや筆が紙とこすれる音などがまざまざと脳内に浮かび上がる。


そう、書道を習っていたころは、今よりも心が豊かであった気がする。
はじめての転勤で友だちという友だちもおらず、仕事に行っても書道の教室に行ってもできあがった空気のなかに溶け込めず、宙を舞うホコリのようにふわふわとした「異物」だったわたし。

けれどもホコリはホコリなりに「わたしは書道を習いにきているので」というベールをまとえるので、そこで友だちができなかろうが気にならなかった。

むしろ、ぺちゃくちゃとおしゃべりをするよりも、2時間真剣に書と向き合いたい気持ちのほうが大きかったかもしれない。
書はわたしにとって別世界への扉であった。
筆を執った瞬間、今この世界から飛び出していけるのだ。


さすがに自宅で道具一式を広げて…というのはなかなかできなかったけれども、暇さえあれば筆ペンで落書きをしていた。
まるで中学生が授業中にするように。

字を書く時間は心が落ち着いたし、あれやこれやと工夫を凝らして気づけばえらく時間が経っていたこともザラだったし、そういう自分が好きだった。

同じ「書く」でも今は文章を書いているし、文章を書くのも嫌いではない。たぶん、きっと文章を書くのも好きだ。
だけどキーボードで文章を打つのと、体で字を書くのとは、やはりまるで感覚も気分も違う。

別に展覧会に出展するわけでもないから、なにをどう書くか誰に指図されるわけでもない。
ただただ基本に忠実に書いてみてもいいし、書きたいように書いたって咎められやしない。究極、文字を書かなくたっていいのだ。

書くことはわたしに与えられた「自由」なのかもしれない。
まるで子どものようにのびのびと心を解放できるひととき。


筆で書く時間を取りづらくなって久しい。
それでもわたしのペン立てにはいつでも筆ペンがすらりと立っている。
「もうアップはできてる。いつでもいける」と言わんばかりに。

来年は「書く」時間、とれるといいなあ。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたの心を豊かにしてくれるのは、どんな時間ですか。

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