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やかましい客は「お金」を知らない。お金は「平等」「イコールの世界」をつくるために生まれてきた

マネーmoneyとか、社会societyとかいう単語は、ほんらい神聖なニュアンスを持つんであって、ここの感覚を理解できないところに、日本人の限界があるというか、いつまでも猿マネ民族として扱われる部分があるというか。

結局、「日本人は社会を理解できていないのに、社会を押しつけられている」という構図です。

僕も外食をしますが、たまに横柄な客を目撃することがあります。
なにやら大声のタメ口で店員に口をきいているんですよね。太った体でふんぞり返って。

僕は、文化人類学者のマネをして、ずっとその横柄な客を観察し続けます。「金を払っているのだから、俺が偉いんだ」という感じの、だいたいおっさんかオバさん。

しかしですよ、よくよく考えてみれば、店と客との関係は、マネーにもとづく契約であり、マネーにもとづく以上、店と客は対等のはずなんです。

お金とは、すべて人間を平等にならすことに特徴があります。社会においては、売り手も買い手も、だれもかれもが平等なんですね。だから、店員もおかしい。ヘエコラする必要はない。

マネーは、すべての人々を『平等』の立ち位置に再編成します。

一万円には一万円のサービスを、十万円には十万円のサービスを提供する。そうやって、お互いにバランスをとっている。

SNSI研究員・鴨川光氏が、常々書いているエクィリブリアムequlibuliamのこと。

僕らの時代のような、マネーにもとづく社会societyにおいては、貴族も平民も存在しません。みんな平等だ、ということになっている。これは、そのまま民主政democracyのことです。

それを、この横柄な客はわかっていない。「上の者が下の者に金を払ってやる」という地域共同体に独特の感覚のままに行動している。こんな光景は、日本のどこでも、そこかしこに見られる現象でしょうね。だから「日本人は社会オンチである」といわれるんですよ。

太平洋戦争の際、1944年にニューヨークで、日本人の性格構造を分析するための太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations)略して、IPR会議がひらかれました。

IPR会議は、もともとロックフェラー財団の資金提供で運営されていたものです。

この会議に、日本人を徹底的に丸裸にしたルース・ベネディクトやジェフリー・ゴーラーも出席しています。

なんと、社会学の泰斗であるタルコット・パーソンズ(1902~1979)も出席した会議です。パーソンズは、僕の師である副島隆彦氏の、そのまた師にあたる小室直樹氏に、社会学を教示した人物でもあります。

このIPR会議の様子が、『日本人の行動パターン』(ルース・ベネディクト著 福井七子訳 日本放送出版協会 1997年)の訳者解説で描かれています。

これは貴重な記録です。p148で紹介されているジョン・マキという人物の発言が重要。「日本人は『社会society』を理解できない」という趣旨の発言をしています。さきに私が描いた横柄な人物像を思い浮かべながら、次を読んでみてください。


『日本人の行動パターン』p148(ルース・ベネディクト著 福井七子訳 日本放送出版協会 1997年)

ジョン・マキは次のように説明する。
「日本では身内とよそ者という考えは非常に重要です。西洋人は、日本人が非常に礼儀正しいと考えています。
確かに身内の関係のなかではきちんと紹介され、礼儀正しく振る舞われますが、よそ者の状況にある場合、形式や丁寧さは完全に無視され、人間の感情を欠いた関係となるのです。
社会的に丁重な言動という考え方は日本人にはありません。(※キョーが太字にしました)

身内とよそ者という考えは、強い郷土愛に基づく地方主義に遡ることができます。外からやってくる人は、潜在的に敵やスパイと考えられていた十七、十八、十九世紀に由来します。 

家族は最小単位の身内で、友人、級友、同郷人、同国人という単位の身内へとその範囲は広がります。そしてよそ者はすべて劣っており、軽蔑の目で見られるのです。(※キョーが太字にしました)日本人は敗北した敵は、軽蔑をもって処遇されるべきだと思っています。」

これを読んでいると、最近話題の、外国人研修生のことを思い出す。

人間として扱われていない。欧米白人にはきちんと礼儀を尽くすのに。恥ずかしい田舎者どもが。

だから日本人には『社会society』は、わからないんですよ。

だからみなさん、店やホテルでふんぞり返っている人間を見たときは、「ああ。この人は、社会オンチの土着民なのだ」と思って、マジマジと観察すればいい。文化人類学者をマネして見ればいいです。

同様に、清く正しい、笑顔マシーンのような営業マンもまた、『社会society』の輸入に失敗した人間です。

社会という魔界の中では、とるべき手段、ふるまうべき行動がわからない。だから、笑顔マシーンというパターン化された類型が現れる。

『社会society』とは、Godそのものなんですよ。
近代という妙な時代にあわせて、つまりは、マネーを基軸にせざるを得なかった時代にあわせて、キリスト教のGodは、『社会society』という姿へと変貌しました。

Godの生まれ変わりたる『社会society』の、アジアでの初輸入は、戦後日本において行われました。アメリカの戦後統治において、日本にキリスト教が輸入されたんです。

しかしキリスト教など、もっといえばGodの一部となる喜びなど、日本人にはとうてい理解不可能です。喜びなんかないですよ。むしろ魔界。Godなんぞ知るか。誰だそれは。

僕らは、東アジアの島国の、隔離されたおぼっちゃま民族です。ずっと国を閉じて生きてきた。だから、Godなんか知らない。Godの一部だからといって、自分を肯定することはできません。

だから、笑顔のふりをするしかない。清く正しい笑顔マシーンになりきるしかない。その内面はズタズタに引き裂かれて、ネットに癒しを求めて、陽が昇れば再び笑顔マシーンです。

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