藤井風 完全読本 MUSICA5月号が抽出した風の心音
藤井風が8万字という文字数で綴られた。これは単行本1冊分にも及ぶ情報量だ。これほど膨大であれば咀嚼し消化するのに時間がかかるものだと思っていた。実際にMUSICAを手に取るまでは。
グラビアの如く鮮やかなショットは後でじっくり見よう。そう決めてインタビューページに急いで目を通す。
圧倒的に読みやすい。まるでドキュメンタリー映画を観ているかのようだ。目の前に次々と映像と音声が浮かんできて、あっと言う間に読了してしまった。この記事では、彼の半生についての考察を書こうと思う。
チャプター1でのエピソードは、デビュー前後からこれまで、本人がメディアを通して断片的に語ってきたことの総ざらいだった。
藤井風を形づくる音楽はジャズとポップス、クラシックが3つの大きい柱だということ。父親にずっと寄り添ってもらい、音楽教育を受けてきたこと。
記憶に残っている曲としてABBA「ダンシング・クイーン」とセルジオ・メンデス「マシュ・ケ・ナダ」が出てきたのは、結構意外だった。吹奏楽上がりの人なら、どちらも演奏したことがある曲かもしれない、メジャーな楽曲だ。
共感したポイントでもあり、中でも印象に残ったのはこの箇所だった。
「遊ばないことが当たり前」の幼少期
ピアノはもちろん「音楽の道に進む」には、幼少期から一定量の練習と勉強の継続が必須だ。
(詳しくは、下の記事内「藤井風の音高時代を思う」「音大受験生の現実」「すべてをピアノと音楽に捧げて生きてきた」を参照)
「普通の子がしていることができない」のは当然か?
ピアノの技術は、要領の良さや精神力ではカバーできない。物理的に練習しなければ決して上達しないため、毎日まとまった練習時間が必要だ。これはスポーツ選手が日々、一定のトレーニングを欠かさないのと全く同じである。
「もし、音楽の道へ進むことを選ぶのなら、普通の小学生や中高生と同じことなんてできないよ。それが当たり前」
これは思春期を迎え、ピアノの練習が中だるみになりがちな我が家の小学生に、ピアノの先生が掛けた言葉。
管楽器や声楽なら、本格的なレッスンは身体の出来上がる10代から始める。だが、ピアノや弦楽器を本格的にやるのであれば、学校のみんなと同じように遊んでいる暇はないのが当たり前。なんとなくダラダラしているとあっという間に一日が終わってしまう。学校のある日は圧倒的に練習時間が足りない。
みんなと同じでないと辛いとか、嫌だとか思うようなら、音楽の道へは進めない?
もちろん、学校の勉強や友達との時間も大切。なのでタイトな中でも目標から逆算してスケジュールを立て、時間を効率的にやりくりする必要がある。
小学生のうちは、親が上手く誘導することで練習を続けられる。だが思春期になり、自我の芽生えた中高生には、友達の誘いや迫りくる数々の誘惑を断ち切り、ピアノを練習するのは厳しくなってくる。
それだけに、強い覚悟とタイムマネージメント能力がなければ、音楽の道に進むことは難しい。
結局たどり着く所は
「好きこそものの上手なれ」
「動機は”音楽への”愛」
なのだ。
MUSICAで語られた藤井風の「普通であること」への想い
わたしは彼が「普通」に憧れ、無意識に「普通でいよう」「普通から離れまい」とする気持ちが、痛いほどわかる。
「世間知らず」
「音楽のことしか知らない」
「取り柄はピアノだけ」
わたしはそういった「レッテル」を貼られたり、「色眼鏡」越しに見られないよう、必死で普通の子に「擬態」していた。
音楽だけではなく、勉強もスポーツも恋愛も。みんなと同じように普通のスクールライフを楽しみたい。周りにいる音楽漬けではない「普通の子」たちとも同じものを見て泣いたり笑ったり、感動したりしたい。
心の琴線に触れるような作品を生み出すためには、普通で生身の肌感覚をわかっていたい。もし音楽を生業にできなくても、それは生きていくうえで必要なこと。そういう想いを常に持っていた。
藤井風の言う「自分の中でバランスを取っていたような感覚」や、彼の両親の言う「何かひとつのことに極端に偏るような人」ではなく________偏見を持たず、常に冷静にフラットでいる。これは音楽家だけではなく、全ての人にとって大切なことだと思う。
みんなと違っていてもいい、でもバランス感覚は保っていたい。そういう事なんだろうと。
藤井風くらいの才能があれば、別に「音楽バカ」でもいいじゃないかという気もする。だが、そこは好奇心旺盛でポテンシャルの高い彼のことだ。新しい価値観や広い世界に触れた時、迷わず飛び込んでみたくなるものなんだろうな。
藤井風には、いろいろ透けて見えてしまうのだ
普通の子とは隔たりを感じ、俯瞰で物事を見てきた彼だけに……。
小さなころから神童ともてはやされ、年頃になれば、あの通り。人目を引くルックスだ。
光の当たる反対側には必ず影がある
皮肉なことに「持てる者だけが味わう疎外感」は確かに存在する。
注目と賞賛が集まる一方で、ライバル視されたり、やっかみから心ない一言を向けられた経験もあるかもしれない。点数で表されず、一般的には評価が可視化されないのが音楽というもの。ピアノだけでなく、さまざまな面で「そこにいるだけで罪レベル」の藤井風。周囲からどういった視線を向けられていたかは想像に易い。
そうだとすれば、普通の子には見えないものも見えてしまうし、気付かないことにも気付いてしまう。
藤井風は光の当たる場所だけでなく、傷ついたり、影になったりしている存在のことも、ちゃんと理解している。だからこそ人と人の繋がりを大切にすること、周りの人に対して等しく接すること、自分にも誠実に生きることの尊さを実感しているのだろう。
まさにソクラテスのいう「無知の知」と同じだ。人は世界のすべてを知ることはできないし、自分の知識が完全ではないことに気がついている。
彼は、わかっている。無知であることを自覚していることで、さらに新しく学ぼうとするという姿勢こそが尊いということを。
その上で生まれたのが「きらり」の歌詞だったのだ。
もうこの発言は精神科医か哲学者、もしくは悟りを開いた宗教家のようだ。実際、仏教では「心を整える」という教えがあるし、認知行動療法は自分の見方や考え方、受け取り方のバランスを整える心理療法である。
藤井風の達観したような歌詞や老成した雰囲気も、年齢なりの葛藤を乗り越えてきた証なのだ。そんな彼の「今ここにある心の声」が今回のMUSICA5月号のロングインタビューであり、活字を通してまろやかな言葉で抽出されている。
そして「まるで神が遣わせた天使のよう」と神格化されがちな彼も、私たちと同じ生身の人間だ。日々新たな可能性に挑戦し、もがき続けていることも伝わってきた。そんな彼の姿に親近感を感じ、背中を押された人は少なくないだろう。
それがわかって本当によかった。なかなか気づけんよね ~「きらり」より
藤井風を通して思うこと考えることはたくさんあるけれど、今日はこの辺で。学びは続く……
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