見出し画像

浜辺の歌(いもうと)

あねへ

こんにちは。
札幌は数年来の大雪です。日に日に大きく高くなる道路沿いの雪山、車線の減った幹線道路は大混雑、ついに全線の止まったJRと、大混乱でした。
アパート住まい車なしの私に雪かきの苦労はありませんが(むしろ申し訳ない)、春と緑と土の匂いはそろそろ恋しいです。

先日の、あねの手紙。

ちちは苦しいとか辛いとか、そんなことは言わなかったね。悲しみや嘆きも見せたことはなかった。ちちの感情表現は、怒りだった。うまくいかないことに、満たされないことに、感情をうまく表現できないことに、いつも怒っていた。解雇された苦しみを、ちちはどこで吐き出していたんだろう、と思いました。

本当に、父はいつだって怒っていた。一体何がきっかけだったか、食卓をばんばん叩いて叫んでいたこともある。わがままで勝手な人だとずっと思っていた。今ならば、父の不安や疲労、仕事を認められない不遇や苛立ちを、少しは想像することができる。
あの年は、解雇になってすぐ後に、他の学校でロシア語の授業を持つことが決まったのではなかったかな。捨てる神あれば拾う神あり、と呟きつつ、毎週車を片道2時間以上運転して、授業に出かけて行きました。
癌が見つかって、お腹を切って、それでも有給なんてものはないから仕事に行こうとする父が、帽子を手に取って、でもそれを被れなくて、小さく「休んでいいか」というのを聞いたとき、父は病院が大嫌いだったけれど、喧嘩をしてでも首に縄をつけても騙し打ちでも何でも、明らかに顔色が悪いと気づいたときに病院に連れていくべきだったし、いやこんな状態の父に「仕事に行かないでよ、休もうよ」と言ってあげるべきだったと思いました。
あの朝の「休んでいいか」は、私が生まれてはじめて聞く、父の弱音でした。

いつか、私たちは父の残した手帳を読んでみるべきなのかもしれません。
子どもたちの誕生日にはそれぞれの名前がロシア語のアルファベットで記され、隙間にはロシア語やアイヌ語の単語が繰り返し書かれた、細くて少し癖のある父の筆跡で埋められたあの手帳には、聞きそびれた父の声がまだ残っているかもしれない。
「未来が過去の意味を変える」というのなら、「俺は50年経ったら評価される」という父の願いもどうか叶えられて欲しいものです。

あねが、誰がどれだけあねのせいではないよと言おうとも、あの子の病と死について、もっと何かできたのではないかと後悔したり、考え続けることはもしかしたら終わらないのかもしれません。
ふと、口から「浜辺の歌」が出てきました。

あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ 忍ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ 忍ばるる
寄する波よ 返す波よ
月の色も 星のかげも

何を見ても、何をしても、思い出してしまう。考えてしまう。優しく懐かしく思い出せる日があっても、深い後悔と悲しみに溺れてしまう日もあるのだと思います。
それでもこれだけは言える。
父もあの子も、いつもあねを思ってる。あねに出会えて、幸せだったと思ってる。あねに、幸せでいてほしいと思ってる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?