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ほろ苦アフォガード

ひとしきりの会話が終わって、傷口がないはずの胸がペーパーカットをしてしまった親指のように傷んだ。話し終えた上司の顔は穏やかで満足気だった。私も同じように笑みを返したけれど、実際のところ私はその上司をあまり快く思っていない。悪い人ではないし、よく面倒を見て下さるけれど、デリカシーのなさや、ちょっとしたことが何だか会話をするたびに疲れてしまう。(エナジーヴァンパイアだなんて言ったりするらしい)

スキキライの感情を表情に出すことは良くないと思っている一方で、それを表に出すことなく、感情と正反対の表情や態度でいることも良くないと思っている。
それはとても軽薄で、自分にも相手にも嘘をついているみたいだし、自分が同じことをされているかもしれないと思うと、疑心暗鬼を生じさせるしかなくなってしまう。

きれいごとは好きではないし、きれいなことばも芯を食っていないような気がして今一つ好きになれない。寓話は好きでも、ポエムが好きになれないのはそういうことからだと思う。でも、きたないことばはもっと好きになれない。必要な殴り合いもあるだろう。感情を正しく伝えるためにはそれだけことばに牙が必要かもしれない。

ただ、感情は正しく伝わることがあっても、ことばの意味や伝えたいことが正しく伝わるとは思わない。立場の上下が生まれたなかで対話には、どこか必ずボタンの掛け違いが起きる。正しいことよりもこえの大きさが勝つことがある。いや、そもそも対話とは勝ち負けではないのだと思うから。
お互いの考えを正しく伝えて、理解し合うことが対話で、そのなかに譲歩や言い分の通る側とそうでない側があっても、目的は理解ということは対話においては不変だと私は思う。

そして、これはきれいごとではない、と思いたい。

上司を見ていて思うのは、悪気がないのだということ。距離感やことば選びが極端に下手なのだろう。そして、ご自身にとても自信がある。まるで私には無いものだらけなので、羨ましい気持ちもあるけれど、やはりデリカシーや距離感は必要だし、周囲が思うスキキライの評価とズレてしまっていることに気がつくことができないでいるのは、どちらにとっても不幸だなあと感じる。

日々、そんなことを感じて、そして考えて私は私で勝手に悩みのなかに入り込む。社交性やら、周囲とうまくいくための処世術は無意味であるだけでなく、ひとつの悪なのではないか、と。
では、対極にある取り繕わず本音、あるいは文句、直情的な態度を取り続けたら正なのかというと、それも違う気もする。始終文句ばかり言っているひとに限って、自分が言われる段になると傷ついたと騒ぎ立てたりする。
傍目に見ていると、一億総評論家の如く冷静に、あれやこれやと言えるのに当事者になると、私自身も含めて、答えに窮する。情けないものだ。
答えが見えにくくなるのもあるけれど、答えを出すことが怖い、ということもあるのだろうな、きっと。

そして、急に上司は辞めることになった。
次のステージに行くと仰っていたけれど、同じように悩んだり、考えていることがあるのは想像に難くなかった。上司が私を見ていたように、私も見ていたのだから、何となく見えることはある。
ついていけない、一緒に仕事をしたくない、と思っても、いざそういうことを聞くと何だか寂しい気持ちになってしまう。こういうところも私は嫌な人間だなと自分で思う。私はきっとズルい。
どんなに嫌いな人であっても絶対学べることがある、というのが揺るがない持論だけれど、そもそもどこまで本気で人を嫌いになれるかというと、本当にそれは限られた人だけになる。
上司からも多くを学ばせて頂いた。私が上司と接していて感じていたストレスは、上司に対するものではなくて、自分のなかのジレンマだったと思う。
表面的に振る舞う自分、多くを学んでいる自分、疲れてしまう自分。どの私も本当で、その私が同じ瞬間でそれぞれを客観的に見て、それを冷静に見ていることが辛くなっていたと思う。

きれいごとではない本当のこと。
きたないことばなんて使わなくても、言いたいことはことばにできる。
私はとても浅ましい。誰が何を考えてるか分かったのなら対人関係で考えることは減るかもしれないけれど、今よりもっとギスギスとして、今よりももっと怖くなるのだろうな。
あまり色々なことは見えすぎたり、考えすぎない方が、より良く生きることができる。
分かりやすくて、実に遠い生き方。

たんなるにっき(その154)

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