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殻と壁の造り方と使い方

昨日読み終えた小説のことを思い出す。相も変わらず同じ世界観、同じ展開、同じ台詞で、既視感がとてもあったけれど、それでも大事にゆっくりと読んだ。途中から内容の面白さ云々よりも、自分自身の相似性だとか、自分というものの仕組みを見ていた気がするから、ゆっくりと読んだのだと思う。
そんな折、とても好きな文章を描く方の新しいエッセイがドロップされて何日も考えてからコメントをさせて頂くと、より相似性を感じることになった。
他者のなかにある自分自身を、他者のなかにあるからこそ鮮明に見えることがあって、でも私はきっとそこにはいなくって、ほんとうと影はいつも入れ替わり続けて、私は懐柔するフリをして(それはとても無意識なこと)せっせと殻と壁をつくり続けている。他者を隔ててる境界線ではなく、流れ込んだものに飲み込まれないための堰であり、私を私たらしめる輪郭なのだろう。(そして、それは実は何の意味も持たない。)
そういった発見は本当はとっくに表出しているのに、あまりに多くのものに紛れており、見えてない気がしてしまったり、同じことを違う出来事によって、違うものであるかのように見えたりする。
まるで、ほんの1グラムにも満たない砂金がそこにあるのかすら分からず、それが何のために必要なのかも分からずに繰り返しいるみたいなことなのだと思う。
だから私が書く文章には『し続ける』が多いのだと思う。ひかりと影があって、夜と風があって、月があって、時々猫が出てきて、飽きもせず意味を探して、あなたのことを考え『続けている』のだ。
無自覚で無意識に並んだことばの羅列だからこそ、同じことがことばになる。それを世界観だなんて言えば聞こえがよく、悪く言えばマンネリズムなのだ。ただ、それは私というひとりの実存から見たせかいなのだから当然なのだとも思う。(開き直っているのではない、凡庸で取るに足らないということに他ならない)
他者との会話や本を読んだりするなかで、そういう自分自身を否応なく突きつけられている、ということなのだ。
今、駅のホームにいて張られた金網の『C=3.V=1』が何を意味しているのか、それは何かの物語のマクガフィンなのかどうか、と考えはじめる時に、もし隣に誰かがいたら何を見て、何を思うのだろうと考える。優劣を決めるのではなく、相似でも対比であっても輪郭とせかいを知ることが出来る。
こんな思うことを思う順番に文字起こしをしているだけの文章に何の価値もないのだけれど、文字にしなければ、ほんの数分だ霧消してしまうことを書き遺しておいたのならば、ほんとうと影を行き来する私はまた私を思い出すことができる。


たんなるにっき(その136)

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