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言葉の芽から心根が浸る水の純度が見える

資料館なのに入ると病院と同じ匂いがした

ハンセン病文学の新生面
『いのちの芽』の詩人たち
という企画展に出かけた

浅学の私は訴訟の辺りからしか知らない
現代の日本で新たに感染する人は少ない

知っているが故の怖さもあるだろうけれど
知らない怖さの方が遥かに恐ろしい

最近Eテレの『100分de名著』では
北条民雄さんが取り上げられていた
ハンセン病となり隔離生活を余儀なくされながら
自身の体験を小説にした『いのちの初夜』

番組を観て考えたこと、想像したことなど
遠く及ばないことだろうと思った

戦後のハンセン病療養所で行われた
多くの文学活動
隔離政策の不条理や偏見や差別のなかで
嘆き、絶望、寂しさがあり
それに向き合い必死に灯しつづけた
希望、連帯、再生があった

展示と作品を見て、胸に突き付けられたのは
感動だけではなかった
人としての在り方や自身の倫理や畏れを
顔を間近に向けられて問われている
ような気持ちがした

私はほとんど詩を読んでこなかったし
今もって、人の書いた詩を読んでも
分からないことの方が多い
それなのに自分自身では詩を書いている

詩は叫びであり、自分自身を知る作業
そして、軌跡なのだと今日思った

誰かを感動させたい、などと言っている
表現者もいるのだろうけれど
そんな作為的で表層的でベクトルが外にしか
向いていないものは忘れ去られてしまうだろう

表現を選ばずに言えば、今日作品に触れて
私は怖かった

想像が膨らむこと
膨らんだ想像は現実を遥かに下回ること

書かれた時の思いが突きつけられて
考えが拡がること
それは清廉潔白なものだけではなかったこと
私は良い人間ではないことを思い知る

そして、ハンセン病だけによらず
人間から差別や偏見は無くならないのだろう
という誰もが知っている現実
私という人間は被害と加害の両面に
立つかもしれないという怖さと嫌悪が迫り上がる

日々、記事のネタを作るために誰かの書いた
文章や行動を批判的な目で見る人がいる
それが口汚く、それでも然もありなんと
思わせる声の大きさと一面的なエビデンスで
書かれて、裏側では嘘を織り交ぜて扇動すれば
それは正義や真実として語られる

矛盾に気付いているのか、いないのか
また別の記事では真逆のことを言う

これらが日々繰り返されるうち
『また言っているよ』と読み手が呆れ顔でも
声を発しない限りにおいて、新たな読み手は
真実と誤認する
一種の生存者バイアスが生まれていく
私ではない私は今日もひとり歩きをしているだろう

怖いのは、私自身がいつも正しくいられる
などという保証はどこにもないということ
むしろ、たくさん間違えて、正しくないから
多くを失ったり、理想と大きく隔てた現実の
なかにしかいられないのだと思う

自分自身を疑うこと
そして、今日作品に触れて突きつけられたこと
これを忘れてはいけない

たんなるにっき(その98)

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