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写真>事実:写真の部屋

見たときすぐに、そこで何が起きているかがわかる写真があります。「わかる必要がある」と言い換えると、報道写真などがそれにあたりますが、これは見る人が理解し、納得する目的のために撮られています。

目的のある写真は簡単です。そこにある事実を写せばいい。語弊がある表現だとは思いつつ、世の中の大部分は語弊でできているので、気にせずに進めます。二元的に言う必要もないのですが、事実を写す写真と、事実以外のものも含めている写真は存在の意味が違っています。

私は事実を写そうとしたものを便宜的に「標識写真」「鑑識写真」などと呼んでいます。「友人と温泉に行きました」という写真はシンプルに「温泉に行った」という事実の記憶を残す役割を持っています。写真の一番わかりやすい衝動です。そこに行ったことがあとで思い出しやすいように温泉旅館の看板の横で撮ります。これはこれでいいんですよね。

しかし、写真の衝動はそれだけではありません。行動の記録とは別の、感情の記憶を残したいとき、看板などが反対に邪魔になることがあるのです。今回は「感情を写すために排除すべきもの」の話をします。

目の前で起きているものを仮に「事実」としておきますが、温泉旅行に行った人たちはそれぞれ違う感情を持っていたかもしれません。ずっと前から楽しみにしていた人、残してきた家族や仕事が気になっている人。ですからその旅行に来た人の全員が別の感情を持っていて、違う感傷や浴槽に浸っているわけです。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。