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インドネシア滞在記㉒最終話 帰国

 何事も始まりには終わりがあるもので、ついに長かった私のインドネシアでの生活にも終止符を打つ時が来た。日本への航空券を取る時は何度も手が止まってしまったが、授業も調査も終わったし、散々旅行もしたし、よく考えたらやりたいことは大抵やりつくした気がしたので、いざ帰ると決めてしまえば案外スッキリとした気持ちになった。

 リリック先生の研究室メンバーが最後にと、大学近くのスンダ料理のレストランで送別会を開いてくれて、そこではイルハムが代表して挨拶をしてくれた。イルハムが、私のことを「ブラニ(勇気がある)」と「ポロス(ちょっぴりイノセント)」という2つの言葉で表現してくれたのがなんだか嬉しくて、今もずっと覚えている。さすがにアゲには会えなかったけど、マハディもジャカルタからわざわざ来てくれたし、卒業したアグスもエリンさんも来てくれていて、インドネシアの思い出たちがその空間いっぱいに、収まり切れないくらいに詰まっていた。できることなら今この空間を、そのまま箱に入れて大切にしまっておきたい、と私は思った。

 出発の日、ジャカルタの空港にはニルマラとイルハム、イルハムの彼女のディザとアグスとマハディの5人が見送りに一緒に来てくれた。かなり余裕を持ってついたのに、格安航空券のチケットを買ったせいで荷物が大幅に重量制限をオーバーしてしまい、その場でお土産や荷物を捨てまくったり、超過料金が高すぎて持っていたお金が全然足りず、アグスが走ってお金をおろしに行ってくれ、その間にマハディが荷物をパッキングしなおしてくれたりとみんなに迷惑をかけまくった。汗だくになりながら、なんとかかんとか出国手続きを完了したころには出発時間もぎりぎりになってしまい、寂しさに浸る余裕もないまま、急いでイミグレに向わねばならなかった。いよいよインドネシアともお別れだというのに、最後の最後まで相変わらずの自分に嫌気がさしたけど、私は結局その日、日本に飛び立つことができなかった。
インドネシアに来てから、私はKITAS(キタス)という一時滞在ビザを取得していたのだが、どうやら出国までにそれを返さなければいけなかったらしい。自分で調べなかったのも悪いけど、そんなこと全然誰も教えてくれなかったので、「あなたこれ返してないから、出国できないよ」と空港のおっちゃんに言われるまで全く知らなかった。チケットは無駄になり、散々バタバタしたあげく涙ながらにお別れしたくせに、またすぐに入り口から戻ってきて「ごめん、なんかよくわかんないけど、帰れなかったから戻ってきた」というシャレにならない茶番をやらかし、みんなの度肝を抜いた。

 結局イルハムの車でまたボゴールに戻ることになり、「もういっそ帰らずにインドネシア人になったほうがいいよ」とかなんとか言って笑ってくれたけど、はっきり言ってこんな失態をやらかした人なんて聞いたことがないし、今考えても滞在中の一二を争う恐ろしい思い出である。
キタスの返却の手続きが何日かかかるので、約1週間の間私はリリック先生のおうちにとめていただくことになった。リリック先生は、結局ほとんど何もお世話してくれなかった留学生センターにさすがにひどすぎるとお怒りの連絡を入れ、その後チケットを無駄にした私のために、ガルーダ航空というちゃんとした航空券を取ってくれた。ケチって格安航空券を買っていたのに、落とした鉄の斧が金の斧になって返ってきてしまい、なんだか急に自分がものすごく恥ずかしくなって、リリック先生にはいつか出世払いするぞと心に誓った。来た時も帰る時も終始ビザに泣かされ、インドネシアの一連のビザ事件はトラウマとしてしっかりと心に刻まれたが、その代わりあと1週間インドネシアにいられるという、ちょっとしたボーナスステージをもらってしまった。

 本当に最後の帰国の日は、アグスとマハディがまた、バスで空港まで見送りについてきてくれた。今度はちゃんと荷物も重量をクリアし、最後に名残惜しく3人でナシゴレンを食べながら、なんて事のないおしゃべりをして飛行機を待った。お別れの時は、インドネシアの空港に初めて着いた時と同じように、またマハディが力強い大きな手で握手をして「いってらっしゃい」と言ってくれた。アグスはこれまで一度も握手をしてくれなかったのに、最後に初めて手を握ってくれた。優しくて、あたたかい手だった。
飛行機に乗ってからも、トランジットでバリ島についても、インドネシアの電波がなくなるまでアゲもアグスもイルハムもマハディもメッセージをずっと送ってくれるものだから、飛行機ではずっとめそめそと泣いてしまった。
バリのトランジットでは迷子になり、あわや乗り遅れそうになって呼び出されて全力疾走したり、最後までものすごくヒヤヒヤしたが、長いフライトを終えて日本に着いたら家族が空港で待ってくれていた。やっぱり家族は私の家だった。

 あれから10年が経ち、その間に私は大学を卒業し、日本の企業に就職して社会人になった。日々悩んだり落ち込んだりしながらも、相変わらずの毎日を生きている。結局今だって苦手なことは変わらないし、小さなことでくよくよする癖も、考えすぎるところも全然変わっていない。
そんな自分だけど、インドネシアの思い出は、私の心の奥のどこかにいつもそっと隠れている。あの時感じた、切なくなるくらいの優しい気持ちや思い出は、今もずっと色鮮やかなままだ。

 私は、誰かのために惜しみなく自分の時間を使える人に会うと、「あ、インドネシア人だ」と思う癖がある。そして最近不思議なことに、どうも私の周りで、インドネシア人のような人にたくさん出会う。そして自分もどうか、そうでありたいと思う。
とかく賢く生きねばと焦り、時には自分がわからなくなることもあるけれど、そんな時はそっとインドネシアの日々を思い出し、不器用に遠回りしながら、何度でも明るい方向を目指して少しずつ歩き始める。またいつか、日本かインドネシアで会えることを夢見ながら。
Sampai jumpa lagi di jepang atau di indonesia.

おわり。


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