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マイノリティか、マジョリティか?どっちなんだい!|『スイミー』レオ=レオーニ を読んで

内側から見ている景色と、外側から見える景色

 内側から見ている景色と、外側から見える景色って違いますよね。
 先日用事で札幌に行ってきました。北海道のある世代は東京や本州を「内地」と言います。「それは内地のやり方でしょ」みたいな感じで。北海道人は本州とは海で隔たっているので、外側から内側を見ている感覚がどこかにあるんですよね、自分も含めて。
 そしてこの外側にきた感じは、自分の子どもが発達障害と知った時にも感じました。不登校を経験して発達障害とわかった時、この先みんなと同じ道をあるけない感じがしました。また、運動会や音楽会を見に行くと、他の子ども達の活躍がまぶし過ぎてはるか遠くにいるような感覚に落ち入ったのでした。
 マジョリティ側にいて安心しているようでも、ある時マイノリティ側に来る時があるのです。だからといってマイノリティは不幸なわけでも、残念なわけでもない。

みんなと違うことを肯定してくれる本?

 ところが、日本にいると人と違う事がダメな人間のように扱われる時があるのです。
 例えば中学校の全校集会の時。体育館で全員がきれいに整列して姿勢良く校長先生の話を聞きます。横を向いたり、片足に体重をかけただけですごく注意されます。同じになることが良しとされるんですね。アメリカでは真逆。スタンドにクラスとか関係なく適当に座って、足を組んだり、飲み物を飲んだりしながら、聞いているのを映画などで見かけます。姿勢を揃えることなんてしてません。目的は話を聞くことなので、その人が聞きやすい体勢でOKなんですね。逆に整列や姿勢を気にしすぎて話を聞けないなら本末転倒です。
 僕もじっとしているのが苦手なんで整列するのが嫌でした。早く終わらないかな〜と思って、先生の話なんかほとんど聞いてませんでした。普通の子だって貧血で倒れちゃう子が必ずいたんですから、発達障害や特性が強い子供はもっと苦しいですよね。本質よりも体裁だけを揃えようとして、誰もが話を聴ける環境が作れていないのです。そういう困っている子の外側からの視点で見ると、みんなを同じに統一するのではなく、ゆるくそれぞれの個性を受け入れてくれたらいいのにと思います。
 そんな時、みんなと違うことを肯定しれくれる本を探していて、絵本『スイミー』を思い出しました。
 赤い魚のなかで一匹だけ黒い魚がいる。その魚が活躍するというおぼろげな記憶で読み始めたのですが、なんだか思ってたのと違いました。マイノリティに優しい絵本だと思ってたのに、そうでもないんです。どこに違和感を感じたのでしょうか?
 スイミーは、さかなの兄弟たちに

「でてこいよ、みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ!」
「だめだよ」ちいさな、あかいさかなたちはこたえた。
「おおきな さかなに、たべられて しまうよ」
「だけど いつまでも そこに じっと してる わけには いかないよ。なんとか かんがえなくちゃ。」(絵本スイミーから引用)


そういってみんなを集めて大きな魚の形になって大きな黒い魚を追い出す。
 ここが、んっ?ってなりました。だって外に出たくない赤い魚もいたんじゃないか?ということ。大きな魚のふりなんかしないで、岩陰で静かに暮らしたい魚もいたかもしれないのに。スイミーにまとめられて、みんな一緒にさせられてしまったのです。
 これではまるで、制服で整列して校長先生の話を聞く日本の中学生みたいじゃないですか。あれだって、大きな黒い1つの塊に見えます。僕は、スイミーが声をかけて赤い魚が大きな魚になったところを読んで、一人一人の個性が全体に吸い取られる存在になったように感じました。

スイミーはマイノリティかマジョリティか?

 さらに、驚いたのは同調圧力を作り出した張本人はスイミーだったんです。だってスイミーは目になっちゃうんだから、まさに内側にいて自分が中心ですよね。スイミーは多数派を動かしまとめあげるリーダーだったんですね。
 みんなと違っていて色が黒くていから卑屈にならずに自信を持てば、大きな事も成し遂げられるというメッセージを受け取ることもできます。だから本来素敵な絵本なんです。しかし、読者が置かれた立場によって、また受け取り方も違うと思うのです。
 黒い魚だからてっきり人種だったり少数派のシンボルとして、マイノリティの気持ちを代弁してくれると思ってたんです。でもそうじゃなかった。いじめられたり、除け者にされたりして、外側から内側を見て社会の不平等やアンバランスに気づくみたいなメタファーではなかったわけです。買い被っていたのは、こっちなんで申し訳ないんですが。
 よくよく見ると、確かに本文には、泳ぐのは誰よりもはやかったって書いてあるし、副題が「ちいさな かしこい さかなのはなし」ですもんね。マイノリティじゃなく、マジョリティでもなくそれをまとめるカリスマだったんですね。
 新学期で教室の隅っこでみんなと距離を置いているから同じニオイがすると思って友達になったら、学級委員とかめっちゃ立候補するし、運動会では足まで早かった、、、自分みたいな地味系とは人種が違うのね、、みたいな気持ちになりました。

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