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イキウメ「人魂を届けに」を見て

イキウメ・前川知大さんの凄さ

最初は名前しか存じ上げていなくて、話題になっているなあ、くらいの印象でした。演劇をちょっとくらい見ているだけの自分には、まだまだ知らない世界が多かったということです。
東京芸術劇場というハコが個人的には好きな場所で、学生時代はアルバイトをしたこともありましたが、今でも観劇で足を運ぶことが多いです。
そこで、やっていた「天の敵」(2017)を知ったときに内容が本当に面白そうで、でもすでにチケット完売で行けなかったのが、すごく悔しかったです。
そのあと今はなきシアターコクーンで上演された「プレイヤー」が個人的にはいろいろと興味深かった。あの戯曲を書いた前川さんはすごいなあと思いました。そこがイキウメを結構がっつり見ようと思った入り口でしょうか。
「プレイヤー」は渋谷で再演したときは入れ子の構造になっていて、人の魂をある場所に保管するという概念の舞台を演じるところがスタートですが、だんだんその舞台を演じる役者陣に変化が生じていくところが迫力でした。前川さんの脚本は映画にもなった「散歩する侵略者」もそうですが、現実世界であり得なさそうな出来事に対する説得力、その事象に対して起こりうる反応など、様々な状況が描かれるのが面白い。
今回もどういう作品になるのか?を興味深くしていました。

魂の実体化

魂って、いっとき重さがある云々という話があった気がします。21グラムでしたっけ?
今では根拠のない話なので、ネタでしかないと思いますが、いずれにせよ記憶とか魂とかは、存在の証明は物理的には不可能ですが、実際にあるからこそこういった社会が成立している点でも、興味深いものではあります。
今回の作品は、ある山小屋に刑務所の刑務官・八雲が死刑執行された受刑者の魂を届けに来たところが発端です。この受刑者はテロ行為を行い刑が執行されましたが、この山小屋での生活の後、今回の出来事があり引き取り手がここしかなく、その魂と呼べるものを届けるという事になり、その届けたあとの刑務官の変化が、山小屋にいる人々との交流の中で起こるという話になっています。
魂の実体化、面白い題材です。
日本における刑執行は、俗に言う「13階段」のあとの「絞首刑」です。その刑執行後のときに、人の身体から「ポン」と出たという感じです。
この魂の声が聞こえるとか聞こえないとか、そういう設定含めて、非常に興味深いスタートになります。

山小屋は安息なのか?

ここが今回の舞台での大きなポイントです。
山小屋の主・山鳥は篠井英介さんが女性のように振る舞いますが、実際は男性です。こういう役をやらせると、この方の右に出る人はいないです。正直、男性でも女性でもどっちでも良かった気はします。この話の中で、性別としてどうなのか?ということは問題がなくて、この山小屋に集う人々にとってどういう存在であるかが、重要だったから。
この山小屋がテロを誘発する要因なのか?ということで公安・陣(盛隆二さん)もやってきますが、結局答えは出ない。この山小屋では思想の誘発ではなく、自身の内面に目を向ける機会を設けて、そこに対する答えを自分で見つけるという時間を作る場に過ぎない。しかしその答えが社会的に正しいかどうかは別ということに過ぎない。
今回は刑務官役の安井順平さんの位置がものすごく大きくて、そして素敵な演技でした。自身の子供に対する思い、妻への思い、そして壊れていく家庭、さらに自身の心も知らぬうちに崩れているが、それを仕事への意識と重ねて気が付かない様子で、日常を過ごす。
消えた息子の好きだった曲を聞く、そしてその曲のアーティストが久々に楽曲を作り、ライブを開く。そしてそのライブに行き、アーティストは銃を客に向ける。撃った弾が刑務官の足を貫く、、、、、
実際に起こった出来事を文字にすると、なんだその連鎖はと思うのですが、この出来事を安井さんが語る重さが、すごいという実感しかなかったです。
そしてその言葉を聞く山小屋の人々。別に諭すわけでもなく、受け止める。その出来事の是非でもなく、それぞれの抱えるそれぞれが存在するということです。

隔絶された世界と時間

山小屋にいる人々はそれぞれが悩みというか、今は社会との距離を取りたい人ばかり。葵(浜田信也さん)、鹿子(森下剛さん)、清武(大窪人衛さん)、棗(藤原季節さん)それぞれの背景が語られながら、ストーリーが進んでいきますが、圧倒的に八雲の話がこの作品の中心。八雲という人間の、苦悩と再生の始まりという言葉が、自分の中ではしっくりきています。
時系列だったり、起こる出来事の不可思議さはありますが、今までの前川さんの話と違って、あまりSF、ホラー、オカルトといわれるような不可思議な世界を強く打ち出してはいないと思います。
このいろいろなしがらみから切り離された山小屋の中での時間を通じて、八雲の抱えるもの、子供失踪、心の病んだ妻への距離、そして人の心に近づくことができない八雲自身。こういったものが小屋の中での対話や、自身をさらけ出すことにより、ゆっくりと動いていく。社会や関係性の中ではどうしても見つめることができないものがあって、それをゆっくりと考える「場」としての山小屋の意味を感じさせる話でした。

最後に

魂を届けるという行為によって、山鳥のいる山小屋に来たことは、八雲への救済だったという結末は、非常に興味深い。
そして人はいろいろなしがらみのある中で、でもやはり救済されるべき時間があってもよいのだと思う。
その時間ののちにどう動くのか?どう生きていくか?という命題が、改めて突きつけられる。
自分も見ていて、リセットしたい自分という感覚と同時に、その感覚って自分の弱さでもあって、そこを認めることも必要なんだよなあ、、、と再実感した思いです。

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