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中年の危機

前回の投稿から少し時間が経った。

以前、「大人」になるとはどういうことなのかについて書いてみたのだけれど、今回は「大人」にはなった、ではその次はどうする?といったことについて最近読んだ河合隼雄の「中年危機(https://amzn.to/3Vxo5yY)」を元に書いてみる。

前回は自分だけが良ければいいというわけではなく、周りの人達のことを思って行動できるということを僕なりの「大人」の定義だとした。

少し話を発展させると、そのような態度になるためにはある程度の「余裕」が必要である。

その「余裕」を身につけるためにはどうしたらいいだろうか?それは自分を信じる力、つまり「自信」(自己肯定感にも近い)が必要に思える。

では、「自信」を身につけるには?これは人によって様々で、例えばたくさんお金を稼げばそれが自信に繋がる人もいるだろうし、この技術は誰にも負けないと仕事の腕に磨きを掛けること、そして、それが周りに認められることが必要な人、あるいは所帯や家を持つことが自信に繋がる人もいる。

しかしこの「自信」の拠り所には2タイプある。一つは肩書きや年収、立派な家や車、装飾品などの所有物といった概して世間一般に評価されている「一般的尺度」、もう一つは他人に評価されなくても構わない「自分はこうしてきた/こうしていく」という「絶対的尺度」。その配分や、どちらを先に獲得できるかは人それぞれだけれど、何か人生ゲームのように分かりやすい基準は無いだろうか。

孔子の有名な言葉に「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る」という件がある。
二十代で既に天命を知るような人もたまにはいるだろうけど、恐らく大多数の人間(孔子ですら)はもっとゆっくり、紆余曲折ありながらも着実に自分のことを分かっていくのだと僕は思う。

三十にして立つ、とは二十代で世間の荒波に揉まれながら、一般的に価値があるとされるものをとりあえず目指して獲得し終えた後に辿り着いた状態。ただし、それはあくまで「一般的尺度」の上に成り立つ自信、満足だから、脆いし、飽きも早い。一瞬の喜びはあっても、最高に腹に力が入っている感じは味わえない。

そこで惑う。自分は何のために生きているのだろうという漠然とした不安に襲われる。だから四十にして「惑わず」なんだと思う。この三十から四十にかけて一旦谷底へ落ちる現象を「中年の危機」と言うらしい。

ただ、一般的尺度でも何でもいいから一度満たされるということは、次に天命を知る(=自分はこれだ!というものを見つける)フェーズに行くための切符というか、条件みたいなものだとも思う。

だから谷底に向かうことは決して悪いことでは無い。なぜならそれは下りながらもずんずんと前に進んでいるからである。

次にまた上り始めるまでどんどん暗くなっていくし、途中道に迷うこともあるかもしれないけれど、今まで手に入れた数々のアイテムを駆使しながら新たな自分を発見する旅を楽しみたいと思う。

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