生き方|不快に思う理由の解像度を上げる
心地よい人間関係を増やすために,
不快に思う理由の解像度を上げようとしている。
私は,自分の創造力とそれを実現するための行動を阻害されることが不快だ。さらに付け加えるならば,自分の創造力を他者の小さな世界の中に閉じ込められることが不快でならない。
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不快なことと向き合うことは,それそのものが不快だけれども,不快に思う理由の解像度が上がれば,自分が何を大切にしているのか,何を避ける方がよいかが見えてくるはずだ。
心地よい環境を築くためには,身の回りから不快を減らせばよい。消耗するような人間関係を続ける必要はない。この世にごまんといる人間たち,たまたま物理的に近い環境にあるからって,その人とどうこうする必要はない。
だから,不快な気持ちを言語化できるように,
不快だと思ったことに共通するパターンを見いだすことにした。
私は創造力が豊かな方だと思う。
既存の枠に捉われず,よりよいと描く理想を実現するための具体的な方法をさまざま発想できる。ただし,そのすべては実現できない。(より多くを実現するためには,共感できる,信頼できる仲間が必要なんだと思う。その仲間を増やすことが,今の私の課題だ。)
自分のできうる範囲でよりよいもののために自分の創造力を使って,それを実現に移すために行動することは至高の時間である。
だからこそ,自分の創造力とそれを実現するための行動を阻害されること,特に自分の創造力を他者の小さな世界の中に閉じ込められることが不快でならない。
大風呂敷を広げるばかりで,具体的なアイデアも行動もない人がいる。
その人は,私の創造力を搾取するタイプだ。まるで自分がどうこうしてやったと言わんばかりに,恩着せがましく振舞ってくる。その人自身には具体的なアイデアもなければ,何も行動していないにも関わらず。
自分の理想はさも素晴らしいかのように語るけれども,所詮は井戸の中だ。
井戸から見上げる空はちっぽけで,ほんの小さな世界の中の,ほんの小さな条件だけを見て,自分はすごいんだって語っている。君が見えていない世界があることすら想像できぬままに,自分は素晴らしいんだって思っている。
別にその人がどう生きようと,私には関係ない。
だけど,私自身の創造力が殺されてしまうことが不快でならない。
私はのびのびと生きていたい。
自由に思考して,真理を追究するような生き方がしたい。
この世界にあるさまざまなものの見方を行き来して,知を慈しみたい。
人類の知的営みの末端で,その営みそのものを愛していたい。
創造力が殺されてしまうのは,自由な思考を奪われ,羽ばたくための翼をもがれることだ。知を愛する,自由に思考する営みを阻害されることだ。
私はそれが不快でならない。
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ということに気が付けたら,
イライラしていた一つ一つの出来事に説明がつく。
私は,私のエネルギーを私の創造力とそのための行動に捧げたい。
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