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実際に経験しないと気づかない。のかもしれない

今年も3月11日がやってきました。
東日本大震災から11年。震災による被害を受けた全ての方々へ、お悔やみと被災地の復興を祈念致します。

あの日は朝から仕事で外出していて、夕方頃友人宅でたまたま見たTVから衝撃の映像が流れ、そこでようやく大変なことが起きたことを知りました。
当時主流だったTwitterやFacebookなどのSNSに興味が持てなかった私。3/11から少し経った頃、東京在住の友人から「地震発生当時、電話は全くつながらなかったけどSNSは使えたから、それで互いに安否確認したり避難できる場所を見つけたりできた」という話を聞き、そういう活用法もあるなと少しずつSNSをはじめることにしたのでした。

東日本大震災とは比べものにならないですが、私も台風による水害の経験をしたことがあります。2004年の台風21号です。

はじめて経験した自然災害

その日は早朝まで働き、仕事が終わったら帰宅して就寝する予定でしたが、その後病院での治療予定があったため、帰宅後も眠いながら起きていて、予約時間に合わせて家を出ました。
病院まで車で向かっていましたが、これまで経験したことのない大雨で、ワイパーがまるでサーフィンをしてるような水しぶきをあげまくっていたのを覚えています。

向かったのは津駅のすぐそばにある医院で、車を停め治療をしてもらっていたところ、医院のある建物の警備員が急いで来て「この建物は台風により午後から閉館します」との声が治療室まで聞こえてきました。
まだ治療中だったためこれからどうなるのか不安でしたが、とりあえず予定していた治療は全て済ませてくださいました。
医院を後にし「いったいどうなってるのか?」と建物の外まで出てみると、すでに水がかなりたまっていて、今車で出ても自宅には戻れないと判断し、急いで駅横の立体駐車場に車を停めに行きました。なるべく上の方に停めて津駅に戻ると、既に電車は全線不通になっていました。
そういえば知人が勤めているお店があったと行ってみたら、知人含め数人のスタッフがいましたが皆帰るに帰れない状態になっていて、私もそこで一緒に待機させてもらうことにしました。

しばらくすると、ズボンの裾を大きく捲し上げた人々が何人も津駅の方にやってきます。そのうちの1人に話を聞くと、国道23号線が冠水してしまい、そのことで車が動かせなくなったり立ち往生していることを知りました。
私が話を聞いたサラリーマンは、車に水が入ってきたから危険と判断し車を置いて歩いて駅まで避難してきたとのこと。膝上あたりまで水が来ていて、捲し上げたズボンも上着もびしょ濡れ状態でした。
そうこうしているうちに、津駅前はさながら避難所のような状態になっていきました。

そういえば自宅の方はどうなったんだろうと電話するも、その時はつかまらず。こちらもどうすることもできないので、水位が落ち着くのを待つことしかできませんでした。
夕方になって水位が落ち着き、そろそろ車で移動できそうだと判断し、できる限り冠水の危険性が少ないルートを選んで、そのルート沿いに住むスタッフの子を乗せて一緒に駐車場を出ました。

国道には色んな車がいろんな向きに止まっていて、動かせなくなったり流され移動してしまったことが理解できました。国道以外でも、冠水は問題なくても街路樹や看板が倒れていたり等、その道中は普段の3倍以上の時間がかかり、どうにかこうにか自宅に戻ることができました。

自宅に戻ってみるといつも通りの我が家に落ち着くも、家の中はもぬけの殻。津駅から移動する少し前に家族から連絡があり、自宅のある地域に避難指示が出たため避難所になっている小学校に行くとのことで、私も小学校まで向かいました。
そこで家族に再会でき、話を聞くと集落近くの川が氾濫しそのことで同じ地区に住む方の家が床上浸水ギリギリまで水位が上がってしまっていたそう。なるべく物を上にあげたり等の作業をし、ほどなくして避難指示が出たから小学校まで避難してきたとのことでした。
そして、配られた非常食を分けてくれました。今思うと、これが人生初の非常食でした。

夜明け前には避難指示も解除され、帰る前に近くを車で巡ってみました。途中のコンビニに立ち寄ると停電しており、懐中電灯などでどうにか見える店内には、食べられるものはほぼ残っていない状態でした。お店自体も一部浸水してしまっていて、商品棚の下部のものは全て撤去されている状態でした。
コンビニ近くの友人に話を聞くと、友人宅は被害を免れたものの、家のすぐ近くまで水が来ていて、状況確認するためたまたま持っていたゴムボードに乗って近くを移動していたそうです。

車がダメになってしまったり職場や自宅が被害にあったり等はありましたが、私の周りには人的被害がなかったことがせめてもの救いでした。

よく考えたらいつも隣り合わせ

以前もnoteに書きましたが、災害発生時には、まずは自分(家族)の命は自分で守ること(=自助)が必要です。
無事に生き残れたら、身近な地域・組織・グループの人たちと助け合うこと(=共助)が必要になります。
もちろん、自治体・消防・警察・自衛隊などによる災害支援や復旧活動(=公助)もありますが、災害の規模や状況によって公的機関が対応できない場合もあり得ます。実際に東日本大震災の時も行政自身が被災してしまったり職員が亡くなってしまったり等で、その機能自体が麻痺したり停止してしまうケースが多くありました。コロナ禍ではその難しさが更に増しています。

自然災害はいつ起こるか分からない。だからこそ、これまでの経験や実際に起きた災害などをもとに、日頃から意識し行動することが大切です。
それは共助についても同様です。
いきなり隣近所さんと仲良くなれるわけでもないし、日頃からの関わり合いがなければ、どこに誰が住んでいるのかも分からない状態では、助かる命も助けることができません。
それはご近所さんだけでなく「自分自身」も同様です。自分がその立場になってからはじめて気づくのかもしれませんが、それでは遅いこともあります。

可能性と危機感も隣り合わせ

人や自然も含めた周囲の環境は未来永劫続くものではなく、これまでの営みや関わり合いの元で成り立ち今に至っていることも多くあります。
以前、ソーラーパネルの件で話を聞いて欲しいと来てくれた方がいました。今住んでいる場所のすぐ近くに巨大なソーラーパネルが設置される計画があり、それをどうにかしたいとのお話でした。
既に業者側に土地の売却も済んでいること・パネル設置だけでなく他業種も巻き込み複合的な事業形態になっていること等もあり、よほどの理由がない限りそれを覆すことは難しい状況でした。
ちなみに、設置予定の場所は以前何だったのか?と聞いてみると、近所の方がお米を育てていたとのこと。
売却に至った経緯はよく分かりませんが、その田んぼをご近所さんで守れたらよかったのに、と感じてしまいました。そして、自分の住む地域やその環境は、誰かが守ってくれるのではなく、自分達も行動しなければ守っていけないことを強く感じました。

アノウラボ立ち上げ当初から掲げている
誰かがやってくれる(やってくれよ)ではなく、自分たちで理想のまちを作れる(作りたい!)
そう思えるようなまちを、みんなでつくってみたい。

この言葉には、地域の可能性だけでなく危機感も含んでいます。
アノウラボの活動はほんの些細なことでしかありません。大した役割も担えないかもしれません。それでも今できる「何か」を「行動」に変えていかなければ、という思いがあり活動をはじめました。

形は問いません。
安濃町に住んでいなくても構いません。
もしアノウラボやその活動・安濃町という地域に興味を持ってくだされば嬉しい限りです。

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