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人は友になる気のない者を友にしてはならない。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第8巻 友愛

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。


友愛は人が生きるにあたって必要であり、かつ美しいものだ。ここでは、友愛のうち、人間のさまざまな性格や情念にかかわる問題を考察する。

友愛はすべての人が対象なのか?友愛には複数あるのか?

それには「愛されるもの」を知ることが前提になる。1)善きもの 2)快いもの 3)有用なもの のいずれかが愛される。

そして、友人であるためには、これらの3つのどれかによって、互いに対して好意をいだき、かつ、互いの善を願い、そうしたことが互いに気づかれていないといけない(相互的な愛)。

ただし、2)と3)の友愛は付帯的である。一時的な状態か性質であることが多いからだ(年寄や商売人が助けをあてにしたり、若いものが快楽だけを求めるなど)。

完全な友愛とは、永続的な徳において互いに似ている、快い、有用な善き人々どうしの信頼感ある友愛だ(善を願うのは情念ではなく、性格の状態に基づく)。

しかし、善き人は少なく、友愛が育つには(相手についての経験を重ね、互いになじみ深い関係になる)時間と親密さが必要なので、完全な友愛は稀である。それ以外は類似した友愛だ。

よって「生活を共にする(共に活動して生きる)」ことほど友に相応しいことはない。場所や時間の隔たりが友愛を消滅させたり、活動を停止させることがあるからだ。

「等しさ」も友愛において考慮される。

優越性に基づく友愛(父親と息子、年長者と年少者、男性と女性、支配者と被支配者)では、それぞれが他の者から同じものを手に入れるわけでもないし、それを求めてもいけない。愛することが、当事者の価値に即したとき、「等しさ」は実現される。量ではない。

例えば、母親は子どもを愛することを喜び、友愛は愛することにその本質がある。

また、「名誉欲」ゆえに人は愛することよりも、愛されることを望んでいるようでもある。ただ、名誉そのものよりも、権力のある人から必要なものの提供を受けたり、知識ある品位ある人から自らの思いなしを正しいと認めてもらうことを目指している。

あらゆる人の結びつきには、何からの正しさと友愛が存在するので、友愛は「共同関係」の内にあるものだ。その関係度合いに応じて、正しさと友愛が同程度に存在する。

そして、共同関係は全体としての長期の利益を目指す国制も含む「社会的共同関係」のもとに従属しているが、それぞれの共同関係は部分的利益と生活全体の利益を目指し、それぞれの共同関係の種類に応じた友愛を伴う。

尚、「血縁の友愛」(父性的な友愛に依拠する)と「仲間の友愛」(ある種の合意に基づく市民仲間、部族仲間、船乗り仲間の友愛は、共同関係的な友愛に近い)を上記とは別のものと区別できる。

相互に与えるものと受けるものとが同じであることであることは少ない(期待通りではないだけでなく、相互の期待が明確になっていないことが多い)。大多数の人は美しいことを望みながら、利益を選択するからだ。こうして、人は身に受けたものに値するものを、相手に返し与えないといけない。

そもそも、人は友になる気のない者を友にしてはならないのだ。われわれは、いったい誰から、いかなる条件に基づいて、よくされているかを考えてみるべきであり、それによって、そうした条件に基づいて利益が与えられることに、自分が耐えられるかどうかを見極めておかないといけない。

<分かったこと>

友愛については9巻にも続くが8巻までの記述で判断すると、本書のこれまでの内容で一番時代のギャップを感じにくい巻である。

奴隷は人間ではないから奴隷に対する友愛は成立しない等、言うまでもなく気になる部分が散見されるにせよ、大方、今の時代の人間関係で経験することにそのまま当てはめて違和感のない文章が多い。

中庸の考え方、あるいはその大切さが、2000年を超えてあまり変わりがなく発揮されるのが、信頼関係に基づく友人のあり方なのだろうか。親子関係の記述以上に、友人関係の状態に普遍性があるのだ。

今、ポッドキャストでトマス・アクィナス(1225-1274)に関する解説をかなり聞き込んでいる。プラトンの考えを大きく取り入れたキリスト教神学が、トマス・アクィナスによってそうとうに成熟した考え方になったのは、(イスラム圏を経由した)アリストテレスの復活が貢献していることをひしひしと感じる。

冒頭の写真©Ken Anzai




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