デザインとファッションの対話がはじまったころ。
カタチのないデザインを考えるにあたって参照すべき1972年は、クリノ・カステッリ(1944ー)による「グローイング・チェア」の発表、ジッロ・ドルフレス(1910-2018)が「トータルデザイン」との表現を使った年と前回の記事で書いた。
上記の内容の文章があるカステッリのエッセー集"No-form 2020"は、気になるエピソードから始まっている。
1967年、フラビオ・ルッキーニ(1928- )にニューヨークに行かないか?と誘われた、と書き始めている。フラビオ・ルッキーニは「ヴォーグ・イタリア」を1965年に立ち上げたアートディレクターで、自身、アーティストでもある。
ぼくは2つの点が気になった。
ルッキーニといえば後にフオーリサローネのトルトーナ地区の立役者の一人となるボリオーリの旦那さんだ。少々長いが、4年前に書いた記事『「デザイン文化」をデザインするーミラノデザインウィークの変遷』の関連部分をコピペしておく。
ルッキーニは大学などでも教えており、ブレラ美術アカデミーでの学生のボリオーリと一緒になった。だから、ボリオーニの経緯が次のようになるのは自然の流れだ。
そして、ファッション、写真ときてデザインにビジネスの領域が拡大していく。
しかし、1967年、ルッキーニは既にカステッリと付き合いがあった。その時のカステッリの年齢は23歳だ。ちょっと米国に誘われるには若すぎないか?というのが2つ目の気になった点だ。
もちろんソットサスが率いるミラノのオリベッティのオフィスで働く優秀な若手デザイナーであったのだろう。ただ、ソットサスの力かオリベッティの力が作用したのかな?と思わないでもない。だが、ニューヨークのブロンクスに行くために彼が買ったジャケットを知ると、感想をあらためる。
当時、米国に飛ぶにはどこかを経由するのが通常だった。彼はロンドンを選び、そこで一着のジャケットを入手する。キングス・ロードにあった小さな店で目についた「信号機とカジミール・マレーヴィチのデザインが交差したようなジャケット」だ。
信号機だけでは色を連想するしかないが、マレーヴィチのデザインとくるとその奇抜さが想像できる。2着しか制作されず、一着はビートルズのリンゴ・スターが買った。高いお金を出して、残りの一着をカステッリは買ったのだ。
カステッリは只者ではないが、オリベッティのオフィスで働くためにトリノからミラノに移り、ファッションの世界に嵌っていたのである。
そして、カステッリはナンニ・ストラーダやエリオ・フィオルッチといったファッションデザイナーと交流を深めていき、ナンニ・ストラーダは生涯の伴侶になる。1973年、2人は一緒にプロジェクトをやっている。
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