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自傷も自殺未遂もやっていた私が、運ばれた先のお医者さんの優しさに触れて初めて「心配」の温かさを知った話

⚠️自殺未遂やひどい怪我のお話が出てきます
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病院へ運ばれた経緯

 忙しい中毎回ご迷惑をかけてしまっているなと本当に申し訳なくなりながらも、しんどすぎて辛すぎて死にたくて、色んな症状で救急車にお世話になっていた私。

 そんな中で先日ついに自分で自殺未遂として首を切るというところまでいってしまい、また救急車で運ばれました(私以外の方が呼びました)。
 その先の病院が普段運び込まれるところと違い、貧血ながら「うわぁお医者さんに加えて看護師さん二人もついてくださってる……、手厚い病院だぁ……」と思っていました。

 どうやら切ったのは名も無い静脈だったらしいのですが、手術シーンでよく見る青いシートが被せられて「あ、そこまでちゃんと縫うくらいのやつなんだ」となったのを覚えています。この時は貧血も相まってでしょうが、普段から酷い自傷をした時の記憶は曖昧なのです。


優しさに触れた処置中

 しかしそこからの看護師さんのことだけは今でもしっかり覚えています。やはり縫うときには周りの皮膚が引っ張られたりして「あ、今縫われてるんだ」とビクビクしてしまい、緊張でガシッとベッドの端を握っていたのですが、その手を看護師さんが優しくしっかり握ってくれたのです。シートで見えなかったのですが、その温かさと「そばにいるよ」と伝えてくださっているかのような、強すぎずでもしっかりとした握り方で、おそらく人生で初めて“人から優しさをうけて心がジーンとした”のです。

 もう一人の看護師さんもどのタイミングだったか頭を撫でてくださって、太ももの自傷の傷跡を見ながら「こんなに傷つけちゃって……」とおっしゃってくださって。今までならその言葉に警戒心を抱いていたでしょうが、その方の言い方や太ももの傷跡を触る手つき、それまでの言動から、そんな警戒心を持つ間もなくダイレクトに優しさを受け取ってしまいました。「あぁこれが“心配”なんだ。そして“心配してくれてありがとう”って気持ちはこんな感じなんだ」と、じわぁと胸の辺りが温かくなる初めての感覚を知りました。


トラウマになっていた過去の処置

 先ほど「何度か救急車にお世話になった」と書きましたが、そのうちのひとつに「自傷行為として太ももを切って深くいきすぎてしまった」時がありました。なんとも間抜けな話ですが、さっきの首とは違い、この時は自殺するつもりがなかったせいで救急車にお世話になることになってしまいました。

 もちろん傷なので縫合しますから部分麻酔が注射でされます。しかし、本来そういうものなのかもしれませんが、何故かものすごく痛かったのです。もう終わりか?と思っても更に深くまで針を刺す、さすがに終わりかと思ってもまだ深く入ってくる。痛みにはもともと強いはずの私であれだったので、恐らく相当痛い部類でしょう……。やっと麻酔の注射が抜かれ、いざ縫合となったのですが、あれだけ深くまで刺して麻酔をしたのに縫合の針が痛いのです。そりゃかなりざっくり深くいったので処置もそれなりになるとは思っていましたが、あまりに痛くてさすがに「痛い」と泣いてしまいました。

 ここまではそりゃあ処置されてるんだから多少は痛いだろうくらいに思っていたのですが、看護師さんが「自分がやったことでしょう」と、「我慢しなさい」というニュアンスだけでなく突き放された冷たさも感じるくらいの一言を発した瞬間、「あ、これ、もしかして、罰されてる……?」と勝手に思い込んでしまったのです。

 もちろん正論です。勝手に切って勝手に病院のご迷惑になっているのですから、怒られて当然だと思います。だからこそ強烈に記憶に刻まれました。


全く痛くなかった今回の処置

 そんな前回のこともあり、縫合での搬送はそれ以降では初めてだったので、麻酔注射の段階から痛みを覚悟していました。なにせ前は太ももで今回は首です。しかも結果的に静脈とはいえ血管を切ったことが自分で分かる程度には出血していたので「深くまで刺されるのかなぁ」と思っていました。

 しかし、麻酔の注射すら痛くない。いやそれはそれで縫合大丈夫なんだろうかと身構えれば「今縫ってますか?」と聞きたいくらいに痛くないし皮膚もほとんど引っ張られない。もちろん素人なので「本当はどちらが痛むのか」なんてことはわかりませんが、とても丁寧にしてくださっていることは分かりました。

 ちなみにその時「なんか……、全然痛くなくてびっくりしました。前のそこの太ももの時、めちゃくちゃ痛かったので……」と漏らすと「あぁー、敢えて痛くする人もいるからねぇ」(だったかな曖昧です)と看護師さんがおっしゃっていて、やっぱり敢えてだったのかななどと考えていたら、その処置してくださった先生が「でも次(自殺未遂を)やったら痛くするからね」などと言い始めてその場の数人で笑ってしまいました。これもまた「明らかに“次があって欲しくないという心配や優しさ”だな」と分かるような雰囲気でした。


未だに慣れない“心配”や“優しさ”

 この出来事をきっかけに、心配や優しさが温かいものだと知ることが出来たのは本当に恵まれたなと感じています。読書が趣味なのでそういった感情が存在することだけを知っていましたが、やはり経験しないと分からないものだったのか本来は皆んなどこかで経験するものなのか、とにかくこんなにも温かくて警戒なんて概念のない気持ちだったとは知りませんでした。

 昔、祖父に「心配かけさせるな!」と言われたのがきっかけなのか、他人から自分に向けられる心配は「自分のミスや配慮不足」を意味すると感じていましたし、そうなれば優しさなんて到底信じられるものではなくなります。要するに常に警戒状態で、きっと純粋に向けられていたであろう心配や優しさもガードしてしまっていたのでしょう。

 ところで「優しさを受け取ってしまった」って先ほど変な書き方をしたのですが、優しさを受け取ってみて思ったんです。こんなの素で受け止めたら壊れてしまうって。

 今までガードし続けていたせいで自分の心が他人の善意によって動かされることに慣れていないのか(他人の悪意によって動かされることの方がよっぽど分かりやすいし慣れる)、嬉しいと思ってしまった自分に混乱したのです。

 優しさを嬉しいと思ってしまうほどノーガードで受け入れていたら、またいつか怖いことになるんじゃないかとか考えているのかもしれません。親からの優しさ?ですら「親だからそうしないといけないよな」「こんなことまでしてくれるなんて有難いな」というように「感謝せねば」という感情でいたからかもしれません。むしろ今までそう思うことしかなかったというのが、優しさや心配に不慣れな原因かもしれません。


最後に

 あの時、優しくしてくださった看護師さんとお医者さんには感謝してもしきれません。

 じゃあ死んじゃだめか……と思いつつも、やっぱりどうしようもなくしんどい時もあるので、綺麗なまとめは書けないのですが、ひとまずは「生きてる間にこの温かさを知れてよかった」と思うことにします。

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