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なんくるないさ〜で生きられる世界線求む

今まで自分が書いてたnoteを読み返してみると、
まずその書いてた量にびっくり。実は去年の1月に書き始めてから、もう29記事も書いていたらしい。
ああ、昔の僕は変なことを言ってないだろうか、とか思って恐る恐る記事を開けていく。

「あれ、意外と思いの籠もった文章書いてる。すげ。
え、もしかして、今の自分の方が頭が悪くなってるとかわんちゃんあるよね。。笑」ってなことを思ったと同時に、

今の自分が、結構自由奔放に生きてて、3ヶ月前の自分と考えてることが大きく違うなぁ、あぁ!新しい自分だ〜!とか考えてたけど、
結局僕の書いてた文章はあんまり今も昔も思ってることが変わってなくて、感情があまり成長してないことにがっかりしたのが半分、
昔の理想がもしかしたら体現できてるのではという期待と安堵の思いが半分くらい。

でもまぁ、自分の「今」思ってることを、ただそのまま文章に起こしているだけだから、モチベーションのピークに書いた文章と今と比べればやっぱ対立する意見も上がってくる。

そこで今日、再考したいことは
昔にも少し述べてたことと違う意見になってきた部分の話。
「個性を出す」ってことと「社会に自分の価値を還元する」ってことの2点。

まず1つ目から。

かつての僕は、簡単にいうと「目立ちたがり屋」だった。
何か自分が他人より優れているところを見つけ、その部分を誇張したり
ここで前に立っておくといつか慕ってくれる人が現れるだろう、とか考えていて
目立った自分が快感で、それを常に求め続けていた。

ルーム長をやったり
学年副会長務めたり
生徒会長やったりしてた理由に、
少なからずそういう部分があった気がする。

事はそういう「立場」の観点以外にも
プログラミングを自分でして、それを更に全校に使ってもらったり
学生団体を友達と一緒に立ち上げてみたり
急にyoutubeを投稿し始めてみたり
ピアノの伴奏受けたり
とにかく「人が関わること」をちょー必死にやってきた。
それが、かっこいいと思ってた。

確かに目立つ立場にいた僕はかっこよかった。
でも、その行為が、自分の自殺行為であったことに最近やっと気づいた。

結局学べたことは「魅せ方」だけだった。
みんなが喜ぶ僕を演じて
みんなが傷つかないように気を張って
みんなに期待される僕を振る舞ってきた。
そこで失ったのは「自分自身」だった。
僕自身が、僕のありたい姿がわからなくなったんだ。

そういう世界から一度離れよう。
今はそういう決意がついた。
「個性を出そう」と無理やりすることは、かえって自分自身を不明瞭にさせる。
だから「目立とう」じゃなくて、「ただ自分がいたいようにいよう」に変わった。

かっこわるくたっていい
人様に迷惑かけてもいい
ありのままにいたいようにいればいい
そう優しく自分を思えるようになった。

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そしてもう1つ。「社会に自分の価値を還元する」ってこと。

今まで僕は「自分の知らない誰かが自分によって幸せになる。」そんな遠い遠い人の幸せを作れるように歩んできた。
↓1年前にこれに関して記したnoteがあった。

でも最近は
「みんなにどうしてあげたい」とか「どうなってほしい」とかそう思い込むこと自体が傲慢やな
って思いに変わってきた。

僕は僕で、他の人は他の人。
他人の幸せを推し測って決めつけるのも良くないし
そもそも迷惑かけないくらいに自分が幸せに生きればそれでいいやん

自分が元気じゃない時にでも、他人のために動こうとしないこと。
自分の価値を還元するとかどうでもいいから
ただ自分をまずは幸せにして、
そこで余った分で、自分の善意を見せたくなった時に、自分の好きな人のところに向かっていってふらっと思いやりをしてくる。
そんくらいでいかなきゃな〜と思った。

また今回も長ーい文章になっちゃった。30分で書き切る予定が、もうすでに1時間も経っている。
書きながら、思っていることが論理的に説明できていない、誤解される伝わり方な気がするなーと思って今ちょっとモヤモヤ。
また本読んで、自分の伝えたい言葉を書く力をつけて
同じような内容のnoteを書くことをリトライできたらと思います。

そんじゃ、ほなまた。