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小説『夜更かしさんと半魚人くん』(2769文字)

 「うう、うううう」
 
 夜中に私を特にうんざりするさせるものの一つが、隣室に住む半魚人の泣き声だ。
 彼は自分が上半身を人間、下半身を魚とした人魚ではなく、上半身を魚、下半身を人間とした半魚人であることを気に病んでいたのだった。

「でもさあ、えら呼吸ができるからいいじゃない」

 彼をいつもそうやってなぐさめる。

「でも、僕は魚だから水がないと生きていけないんだよ!」

 彼はそう言ってまた泣くのだった。そして、私の部屋のベランダには、隣の部屋から流れてくる彼の涙で、小さな川ができていた。

「もう! じゃあさっさと海に帰りなさいよ」

 私がそう言うと、彼はまた泣いてしまうのだった。

「だって僕、泳げないんだもん」

 彼はそんな泣き言を言うためにだけ、私の部屋までやってくる。
 そして私が寝ているか起きてるかも確かめずにドアを叩き、「ねえ、聞いてくれよ」と言って私を起こしてしまう。

「あのね、あなたは泳げるかもしれないけど、あたしは泳げないのよ。わかる? つまり、あなたの気持ちなんかわからないってことよ。だからそんなに泣かないでちょうだい」

 私は布団の中から答える。すると彼はまた悲しげにめそつきながら、「ごめんよ」と言うのだった。

「いいわよ別に。それより今日はどうしたの?」「実は、僕たち半魚人はね……」

 そこで彼は言葉を切って、それからしばらく黙ったままなので、私は仕方なく体を起こして、彼に向き直る。

「僕ら半魚人はね、今度生まれ変わる時は人間になりたいんだ」
「あなたが半魚人を代表するとは、大きく出たわね」
「うう。そういうわけじゃないけど。でもね、僕たちはみんな願っているんだよ。人間のように暮らしてみたいって」
「ふーん。そんなことより、ラーメンでも食べに行きましょう。夜鳴き蕎麦だっていいけれど」
「僕、マクドナルドがいい」
「ずうずうしい魚」
 
  そんなふうにして、午前二時すぎ。私たちは近場のマックへと向かう。
  
「でもね、人間をやっていくのものね、難しいと思うのよね」
「そうなんだよ。だって人間はいろんなものを食べたりするじゃないか。僕らにはできないんだ。それは無理なんだ」
「じゃあ何を食べるつもりなの?」
「僕らはやっぱり魚の部分が恋しいから、海の生き物しか食べられないんだ」
「ああ、それはつらい」

 私はポテトをかじりながら言った。

「それであんた、フィレオフィッシュを食べているわけね」
「そうなんだよ。このフィッシュバーガーなら魚が入っているからね」
「ふーん。まあいいわ。ところで私も半魚人に生まれたかったわ」
「なんでだい?」
「だってそしたら、あんたに泣きつかれることもないし、毎朝牛乳を飲むときだって、飲み口についた白いヒゲに悩まされなくてすむし」
「それはひどい」
「ほんとよ。それなのにどうして私があんたと同じ半魚人に生れなかったのかしら」
「それはきっと、僕たちの出会いがなかったからだよ」
「どういう意味?」
「僕たちはこうして同じ時間を生きているけど、本当は別々の人生を歩いているはずなんだ。僕たちは出会うべきではなかったのさ」
「芝居がかった物言いね」
「実は、劇団に入ろうと思って」

 彼がそう言って照れたように笑うので、私は思わず吹き出してしまう。
 私は少なからず驚いた。だって、半魚人のくせに泳ぐこともできない彼が、お芝居だなんて。
 いやはや劇団とは。これは笑わずにいられない。
 しかし、その笑いはすぐに消えてしまった。なぜなら彼は真剣そのものの顔をしていたからだ。
 そういえば彼ももう十六歳なのだ。

「お年頃ってやつね」
「そういうことじゃないんだよう」

 そんなことを言いながら、また半魚人は涙を流す。お店の床が塩水浸しになって、店員が私たちに文句を言いにくる。

「お客様、困りますよこんな所で泣かれては」
「あらごめんなさい」

 私が謝ると、彼はまだ泣きながら、「すみません」と小声で呟いた。

「ほら、行くわよ」
「うん」

 私は彼を引きずるようにして店を出る。
 そして、また歩き出すのだ。彼の涙で湿ったひれを引いて、ゆっくりと、しっかりと。
 
「君はどうしていつもそんなに強いんだよう。君にもないのかい、悲しくてどうしようもないことが」

 半魚人は泣きながらそんなことを言う。まったくこいつは本当にめんどくさいったらない。

「あるわよ。いくらでもある。例えば、あなたたち半魚人の涙で、人間がみーんな沈んだ事とか」
「う、すまない」

 私が言うと彼は素直に謝る。私はそれを少しだけ嬉しく思う。

「あとね、あなたに泣かれ続けるのは嫌だけど、でも泣くことは悪いことではないって思うの。あなたたちが泣いてくれることで、私の心の中の悲しみが癒えるのよ。塩水の底に沈んで、今はすっかり無かったみたいな気持ち」
「あの頃のぼくたち半魚人は、まだ幼くて、無知で、何もできなかったんだ。だから、君をひとりぼっちにしてしまって……」
「いいのよそんなのは。私こそ悪かったわ。あなたたちに優しくできなくて」
「違うよ。僕らが悪いんだ。唯一生き残ったまじりっけなしの人間の君に、僕たち半魚人は——」

 半魚人の店員が、心配そうにこちらを眺めていた。私は軽く手を振って、フライドポテトおいしかったよ——ちょっとなまぐさかったけどね、と伝えた。店員は口を少しパクパクさせてから店内に戻っていった。

「ねえ、半魚人。あなたの半魚人劇団の公演、観に行ってもいい?」
「え? ああ、もちろんだよ!」
「それが私の生きる楽しみってことにする。ううん、したわ」
「う、うううう」

 半魚人はまたしても泣き出した。今度は声をあげて泣き始めた。
 わたしは腹が立ってきて、半魚人のえらの辺りに軽くパンチした。

「ううう、痛いなあ」
「うるさい。あんたがいつまでもメソメソしているのがいかんのよ」
「だって、だって、僕は魚なんだ。魚でしかないんだ」
「そうね、あなたは魚ね」
「うう、そうなんだ。魚なんだよ。悲しいけど魚なんだ」
「そう、私も悲しいけれど人間」
 
 半魚人はまた泣き始める。
 私はため息をつく。
 
 そして、私は思う。
 もしもこの世界に神様がいるとして、そいつが人間を魚にしたんだとしたら、そいつはなんて意地の悪いやつなのだろう。
 魚が可哀想だと思わないのだろうか。
 魚が人間になりたいと願うことが、そんなにも気に食わなかったというのか。
 半魚人を見る。
 彼はまだ泣き続けている。
 私はその肩らしきあたりを抱き寄せて、こう言ってやる。
 大丈夫。
 いつかきっと、わたしたちがまじりっけなしのわたしたちになれる日が来るから。
 それまで一緒に頑張ろう。
 半魚人が泣き止むまで、ずっと抱きしめていてあげる。
 それからしばらく後、私たちは街を歩いていた。
 時刻はまだ午前三時。夜中だ。夜中の散歩。
 私たちは歩く。ただひたすらに。

〈了〉

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