見出し画像

小説『傘のないガーデン』(2875文字)

 雨がやまないビルがあるらしい。その話を僕は友達から聞いて、だから早速、僕は一人、そこに行ってみた。するとたしかに雨はやんでいなかった。それはそうだ。だってそもそも今日は雨降りなのだから。

 ただ僕は傘をさしていたので濡れることはなかったし、むしろこの水気を含んだ空気感のおかげでなんだかとても爽やかな気持ちになった。これはもう、雨がやむことを祈るなんてことはしなくていい。このままでいいと思った。

 雨がやまないというからには、その理由があるはずだった。それを知りたくて僕は辺りを見回したのだけれど、残念ながら何も見つからなかった。ただ、雨音だけが僕の耳に響くばかりだ。
 ビルの正面玄関から望むエントランスは無人に見えた。しかし、よく目を凝らすと、そこには人影があった。
 僕がその人影に近づくと、相手もこちらに気づいて、軽く会釈をした。
 どうやら、ビルの中にいる人は、みんな雨宿りをしているようだ。僕もビルに入っていくことにした。

 ビルの自動ドアは普通に開いてくれた。中には何人かの人がいて、それぞれに本を読んだりスマホを見たりしている。
 どう見ても普通のオフィスビルのようだ。受付は無人のようで、その隣に観葉植物が置かれていた。僕は受付カウンターに近づいていって、ガラス製の観葉植物の中に入っている水をじっと見つめていた男性に声をかけた。

「あの」

 男性は顔を上げて僕を見ると、言った。

「あなたはきっと私のことを馬鹿にしているんでしょう? 私はあなたのような人をたくさん見てきた。みんなそうだった。自分のことを天才だと思い込んでるんだわ。私がいくらあなたの素晴らしさを説いても理解しようとしない」

 でもそれでいいのよ。それが正解なの。だって私は誰よりも才能があって素晴らしいんだもの。それを自覚していない方がおかしいでしょう? 私は何も間違っていない。間違ってるのはあなたの——

 僕は一瞬にして帰りたくなった。外を見る。しかし雨が降っていた。僕は傘を持っていない。
 
 そうだ。雨が止むまではここで雨宿りをしていこう。
 
 そう思った。
 
 男を無視して僕はエレベーターに向かって歩いていった。男は何かぶつくさ言っていたが無視した。

「おい、少年。あの男は無視した方がいいよ。ちょっとおかしいから」

 また別の男性、サラリーマン風の男がやってきて、僕にそっと耳打ちした。
 僕は少し考えてから答えた。

「……どうしてですか?」
「どうしてって、そりゃあ君、あいつ、いわゆるアレだよ。『俺のこと好きなのか?』っていう奴。そういう病気なんだよ」

 なるほど、そういうことか。僕は納得して、それからすぐにその男の方に向き直って、自分の疑問をぶつけた。

「このビルって、雨がやまないって聞いたんですけど」
「ああ、うん、まぁね」

 男は困ったように頭を掻いた。

「それは本当なんですか?」
「えっ、ああ、本当だけど……」

 男は戸惑いながらも答えてくれた。

「どうして?」

 僕の質問は止まらない。僕は矢継ぎ早に質問するタイプの男なのだ。こういう時に遠慮していては始まらない。どんどん聞いていかないと。

「どうしてと言われても……。別に、理由はないんだけどね」

 僕の勢いに押されているのか、男の声は次第に小さくなっていった。そして最後には、まるで言い訳のように、「理由なんてない」と言った。そんなこと言われたらますます問い詰めたくなるじゃないか。
 僕はさらに質問を続ける。

「なぜ雨はやまないのですか?」

 男は黙っている。視線をさまよわせて言葉を探しているようだ。しばらく経ってから、やっと、男はこう言った。

「……君は、雨が好きなのか?」

 今度は僕の口元が小さく緩んだ。

「はい、好きです。雨のいろんなところが」

 雨の日の散歩は特に好きであるし、部屋で窓越しに雨音を聴きながら読書をしたり映画を見たりするのも好きだ。もちろん、外に出かけることもできるのであれば出かけてみたいと思う。ただそれだけの話なのだけれど、それを人に説明するにはあまりにも複雑すぎて面倒くさいと思ったのだ。だから短く端的に説明した。

「なら、ここにいればいい。ここではずっと雨降りだから」

 男は満足そうに笑みを浮かべると僕を追い抜いてエレベーターに乗り込んでいった。僕もあとに続く。エレベーターの中で、ふと思いついて訊いてみた。

「あの人は、どうしてあんなふうになってしまったんですか?」

 男は驚いた様子で振り返ったが、僕の目を見ると安心したようで表情を和らげた。それから少しだけ首をひねるようにして考え込んだ後に、静かに話し始めた。

「あれも一種の病気なんだ。あの人に限らず、このビルのほとんどの人間は病んでる。だからあんまり関わらないようにしておいた方がいい」
「どんな病気なんですか?」
「いろいろさ。共通しているのは雨が好きってことと、それから——わかるだろ?」

 エレベーターが屋上に到着した。扉が開かれるとそこは屋外になっていた。
 目の前には大きな池がある。水は濁っていてほとんど見えないけれど、魚がいることは間違いなさそうだ。
 水面はわずかに揺れていて、その隙間から時折小さな波紋が見えた。

「すごい!」

 僕は思わず声を上げた。しかしそれは無理もないことだ。何しろそこには巨大な遊園地が広がっていたのだから。観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランド、お化け屋敷、コーヒーカップ、それに空中ブランコのようなものまで見える。とにかくあらゆる種類のアトラクションがあり、しかもそれがとても大きいのだ。

「このビルは、お客を帰さないためならなんだってするんだよ」

 男は言う。
 なるほど、それならばこのビルに雨が降り続けるのもうなずける気がした。おそらくこのビルの中だけで一生を過ごすことになってもおかしくはないくらいだろう。

「雨降りの遊園地を、俺達は独り占めできるというわけだ」

 そう言って男は微笑んだ。
 僕は男の笑顔に見惚れてしまいそうになった。

「どうしてあなたはここにいるんですか?」

 僕は気になって尋ねた。すると男は一瞬、眉間にシワを寄せたが、すぐに表情を戻して答えた。

「それは、ここにいたら楽だからだよ」
「そんなの理由になるでしょうか」

 口ではそう言ったけれど、僕は分かってしまった。このビルは雨がやまない。雨の日が続く。ということはつまりここは閉じられた空間であり、誰も来ることがない。それはつまり、孤独と静寂に満ちた場所だということを意味している。
 彼はきっとそのことに気づいたのだろう。それでこの場所に留まり続けている。そういうことだった。

 僕はそのことを理解してしまったので、それ以上は何も聞かなかった。彼もまた何も言わなかった。
 僕らは二人並んでベンチに座っていた。特に会話はなかった。僕は一人で遊園地の方を眺めていた。雨に濡れた木々や花々はとても綺麗だった。
 やがて、男は立ち上がって、

「じゃあな、少年」

 と言って去って行った。
 
 雨は止む気配がない。
 雨の音に耳を傾けていると、だんだんと眠たくなってきた。

〈了〉

この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?