見出し画像

小説『この世の終わり、病院へ行こう』(2438文字)

 この世の果てには何がある? 私が聞いたところによれば、どうやら病院があるらしい。そこではあらゆる病人が待っている。
 私は医者ではないから詳しいことは知らないが、その病院では患者に治療を施すのでなく、患者自身によって治されるものなんだそうだ。
 先週末、予定がキャンセルになり暇だった私は、この世の果て行きのバスに乗って、確かめに行くことにした。
 バスの乗り口で、運転手と言葉を交わした。「あんたは病気かい?」と聞くので、「いや」と答えた。すると彼は言った。
「じゃあ、なんでこんなバスに乗るんだね?」
 私は答えなかった。
 バスが停まり、降りる客もいないのにドアを開けた。そして私にこう尋ねた。
「お前さん、どこへ行きたいんだね?」
 私はやはり黙っていた。
 バスは走り出し、窓の外を流れる景色を見つめながら、私は考えていた。
 もしもこの世界の果てまで行って、そこで何かを見て帰って来たとして、それは私の病気なのだろうか? そもそもそんな場所などないのではないか? それにもしあったとしても、そこに何があるというのか? 私はもう何も見たくないのだ。
 だが結局、私は行くことにした。それがどんな結果になるかはわからないが、とりあえずは行ってみようと思った。
 バスは空いていた。私が適当に空いている座席を見つけて座ると、隣の席の老婦人が突然立ち上がり、運転手に向かってこう叫んだ。
「このバスはどこへ向かっているんです!」
 私は驚いて老婦人の顔を見た。彼女は涙目になっていた。私は彼女に話しかけようとしたが、その前に彼女が運転手に向けて再び声を上げた。
「このバスは! どこに行こうとしているんです!?」
 彼女の声はよく通った。まるでマイクを通して拡声されたかのように車内に響き渡った。だから運転手にも聞こえただろうし、他の乗客たちだって聞いていたはずだ。なのに誰も反応しなかった。
 老人たちはイヤホンをして音楽を聴き、若者は携帯電話でメールを打っていた。子供連れの母親たちはおしゃべりに夢中になっていて、犬を連れた男はただぼんやりしていた。運転手は前だけを見ていた。
 やがてバスは止まった。しかし降りる者はいなかった。それどころか、停車を知らせるブザーすら鳴らなかった。
 私は不安になった。これは本当に行き先のあるバスなのか? もしかすると私たちは騙されているんじゃないだろうか? その時だ。どこか遠くの方からかすかに音楽のようなものが流れてきたような気がした。耳を澄ませてみると、確かに聞こえる。誰かの声のような気もする。
「……聞こえるかい?」と隣にいる老婦人が小声で私に聞いてきた。
「この音は?」
 意を決して私は尋ねてみた。老婦人は「待ってました」と言わんばかりに、しわくちゃの顔をにんまりと歪めて、
「あれが『この世の果て』よ」
 と答えた。そしてさらにこう付け加えた。
「でも安心なさい。あそこには病院もあるの」
 そう言って力尽きたように、ぐったりと気を失った。私はあわてて彼女を受け止めようとしたのだが間に合わず、彼女と座席に挟まれる形になってしまった。そして私は思った。
 これが世界の果てなのか、と。
「この先、少々揺れます」
 運転手の声。いつの間にか、バスは走り出していた。
 私は窓の外を見るのをやめた。
 目を閉じても開けていても同じことだからだ。
 世界の終わりが見えてしまうかもしれない。
 私は目を閉じたまま考えることに集中しようと努めた。
 この世には終わりなんて存在しないのだとしたら、いったい何のために人は生きているのだろう……。
 バスが停まったので目を開けた。そこにいたはずの老婦人の姿を探す。彼女は座席の下に転げ落ちていた。どうやら眠っているらしい。
 立ち上がって周りを見ると、そこは小さなバス停だった。乗客のほとんどは降りてしまったらしく、残っているのは私たちだけだった。
 運転手がこちらを向いて言った。
「あんたら二人だけだね」
 私はうなずき、「ええ」と言った。
「終点だよ」
「はい」
「ここで降りるんだろ? 料金は一人分だけでいいんだよ」
「わかりました」
「じゃあ、お先に」
 運転手がドアを開ける。外は夜だったが、なぜか明るく見えた。
「あの……」
 私が言うより早く、彼は振り向いて答えてくれた。
「なんだい?」
「ありがとうございました」
「ああ、元気でな」
 彼は照れ臭そうな顔をしながら運転席に戻った。そしてエンジンをかけると、そのまま走り去って行った。
 エンジン音が消えると、代わりにあの音楽が聞こえてきた。さっきバスの中で聴いたときよりも鮮明だった。それは歌声のようでもあったし、楽器の演奏のようでもあり、また呪文のようでもある不思議な音色の集まりだった。
 私はその音楽に誘われるようにして歩き出した。遠くに建物が見えた。あれが病院に違いないと思った。
 私は走った。走りながら考えた。
 この世の果ては本当にあったのだ。そしてそこに行けば、私の病気は治るのだ。
 私は走る。走って、建物の中に飛び込む。
 受付の看護婦が驚いた様子もなく、私にこう告げた。
「あなたは死にに来たんですか?」
「はい、お願いします」
 私は答える。
「では、あちらのエレベーターに乗ってください」
「はい」
 私は走り出す。
 エレベーターに乗り込んで最上階を目指す。扉が開く。屋上に出る。
 そこに一人の男が立っていた。彼は私に向かって手招きをした。
「君が最後の患者だ」
「はい」
「じゃあ、こっちへ来てくれ」
 私は男について行く。男は屋上の柵の前に立つと、下を見下ろしてこう呟く。
「ほら、ここが世界の果てだ。それでも行くのか?」
「行きます」
「よし、わかった。それなら一緒に行こう」
 男はそう言って、懐から拳銃を取り出した。
 銃声。男の放った弾丸が、まっすぐに私の心臓を貫いた。
 私は倒れる。
 倒れながら思う。
 この世の果ては、やはり病院だったのだ。
「この先、少々揺れます」
 運転手の声を聞き流し、私は目を閉じた。

〈了〉

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?