見出し画像

短編小説 | 海鳥

例えばそれは、三番目に好きな人と、大して盛り上がらないデートをしてしまった日の帰り道のような。そんなもやもやを抱えたまま、私は船に乗っていた。

何もかもが灰色に見える、寂しい港を出発した時には、私の他に乗客はいないと思っていた。デッキを少しだけ歩き、細い入口を通って、むっとする空気が漂う船内に入ると、そこには何組か乗客がいることに気がついた。
私は進行方向を向いて座れる席の、できるだけ近くに人がいない場所を選び、座った。

静かな船内には、船のエンジン音が響く。
やがて緩やかに動き始めた船が、ある地点で速度をあげたタイミングで、一組の男女が会話を始めた。
私は暖房の効いた船内で、夏に乗った大きな船のデッキで感じた潮風を思い出していた。
激しい風に舞い上がりうねる長い髪を、両手で抑える。風に抵抗しながら目を細めて、海以外、何もない景色を眺めていた。
船内からデッキに出るためのドアに、海鳥に注意と書かれた貼り紙を見つけて、無性に海鳥に会いたいと思った。

座席に横並びに座り会話をしている男女は、老夫婦のようだが、その関係性の真実は誰にもわからない。
たまたまこの船で出会った二人なのか、何かから逃げている途中の二人なのか。はたまた一度は結ばれずに時を経て、この船の中で密会を続ける関係なのかもしれない。

「うちは、女はあたしだけなの。ね?」
話している女はもう一度「ね?」と言って、ゆっくりと、隣に座る男の反応を窺う。男は「あ゛ー」と、返事とも呻き声とも取れる声を短く発した。

私は年の瀬の移動の手段に、この船を選んだことを満足していた。浮かれた雰囲気は一切なく、騒ぐ人もなければ、年末の挨拶を交わす人もいない。見ようによっては厳かな雰囲気だけはかろうじて残して、いよいよ船は、数人の客と共に、この世界から取り残されたように思った。

途中で、デッキに出てもいいというアナウンスがあった。私は席をたち、ひとり、デッキへと向かった。
冬のデッキは凍える寒さだった。
船の後部にまわり、船が進む度に作り出す模様を、しばらく眺めた。

遠くに見える陸地まで、どのくらいの距離があるのだろうかと、考える。
まだ、たどり着かなくていい。わざわざ、見えているものに向かって進むなんて、今の私は求めていない。

新しい年の音が聞こえる。迫ってくるのではなく、遠くで微かに鳴っている。このまま船の上にいられたら、あの音が私の体の軸を揺らして、私を不安にさせることもない。私はこの、船のエンジン音と振動を、自分の意思で感じられることが心地よい。
出来れば、ここにいる素性も知らない乗客たちと、船に乗ったまま何食わぬ顔で、新しい年の扉を通過したいと思った。そして、それが出来ないことをわかっている。

そろそろ船内に戻るようにと声をかけられ、もう一度、広い景色に目を向けた。
太陽が輝かせる水面は明るく、底に行けば行くほど暗い。それは光の問題だから。
光があるかないかの問題だから。

新しい年が来ようが、過ぎ去った過去が変わることはない。過去は深い海に沈めて、私は光の当たるところを歩けばいい。
氷の張る海に落ちた時には、暗い方を目指して泳ぐのだと、誰かが言っていた。暗いところを目指すには勇気がいるが、その方が氷は薄く、生き延びられる可能性が高いと。
海の中から見る景色と、海の上から見る景色は違うのだと、私はそれを忘れずにいたいのだと思った。

段々と速度を落としていく船の中に戻り、私は船が停止するまで目を閉じる。
船が船着場に着くのか、それとも船着場が船を歓迎して迎えるのか。それは目を閉じていれば、私の思うままであって、その答えは一人一人が持っているものなのだ。

そのとき遠くで、確かに海鳥は鳴いた。




[完]


#短編小説



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?