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「大審問官」を読む

『カラマーゾフの兄弟(上)』ドストエフスキー (著), 原 卓也 (翻訳) (新潮文庫)

物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。

今月の「100分de名著」はドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の再放送でした。『カラマーゾフの兄弟』は過去に読んだ経験があり、長編なので改めて読むには抵抗があるのですが、気になったところで「大審問官」があります。

「100分de名著」第二回で、否定性から生まれる信仰心(アリョーシャ)だと急いで解説していたのですが、確証が持てない為にもう一度読んでみることにしました。

その前にそこまでのストーリーを簡単に。成金の地主(悪どいことをやって金儲けしている拝金主義者)の父親の元に三人の息子+余計もの。三人にそれぞれ特徴があって、熱血漢の長男ドミートリー、無神論者の次男イワン、修道僧の末弟アリョーシャ。スメルジャコフは使用人の女に産ませた私生児で、影の存在。イワンの影としてつきまとっている感じですけど、三兄弟全体という感じですか。

そして、ある日長男のドミートリーが金銭の不和から父殺しをする。第一部は、ドミートリーの父殺しの事件で展開していく家族劇です。「100分de名著」の講師亀山郁夫は、書かれなかった第二部が重要で、そこでアリョーシャが何か事件を起こすと(国家犯罪的な事件)。第一部は、長男の物語。第二部はアリョーシャの物語。でも、第二部は構想だけで亡くなってしまった。

その最大のキーポイントになりそうなのが「大審問官」の章なのです。ここで無神論のイワンと信仰厚いアリョーシャの対話が重要になってくる。ドストエフスキーの小説はたいてい対話劇で、テーゼがあってアンチテーゼをぶつけて、徐々に熱いカタルシス(死)に向かっていくドラマが面白いんですね。とくにこのカラマーゾフはキャラの個性がはっきりしていますから、兄弟中心に読んでいけばスラスラと読めます。

それで「大審問官」ですけど、無神論のイワンがカトリック教会の堕落というより必然的そうなってしまう摂理をスペインの異端審問を行っている大審問官とそこにやってくるイエス・キリストの復活劇の物語です(詩となっていますがイワンが語る一つの物語として読んでいいと思います)。ちょうどキリスト復活の時、処刑後の復活とは別に最後の審判前に信じるものを救いに来るというやつです。そのイエス・キリストが審判する前に大審問官に審判されてしまうというストーリーです。

イエス・キリストが復活(降臨)した場所が今まさに異端審問が行われる場所で、そこでは異端者が火刑に処せられる群衆の中(当時は死刑が見せしめである見世物)にやってくる。イエス・キリストであるという証は、盲目の人を治癒した奇跡(死んだ少女も生きかえさせる)で、ぞろぞろ奇跡を信じた人を従えて大審問官の前にやってきたのです。大審問官は、彼がイエス・キリストだと知っていた。しかし大審問官は民衆の目前で彼を異端者として告発するのです。

大審問官の論理は、異端審問の邪魔をしに来た、お前がキリストなのかは知らない(本当は知っている)がお前を裁きにかける。異端のもっとも悪質な者として火あぶりにする。お前はそれを承知しているはずだ。

ここでアリョーシャは我慢できなくて口を挟むのです。「理解できない」と。「それは老人の妄想なのかあり得ない人違いだ」と。イワンは人違いととってもいいと答えます。人違いとは、アリョーシャでは大審問官であるのに、イワンはキリストを指している。あるいは両方の意味で言っているのですが、イワンの論理が上手いのはこれは喩え話だとして、自分の論述にアリョーシャを引き込んでいく。

ローマ・カトリックの教皇は、すべてキリスト教に委ねている。それは聖書の言葉でそれを変えることは、いま目前にいるキリストにも不可能なことなのだ。法が被疑者によって変えられたら法ではないから。だからイエス・キリストの裁判も可能なのだという論理。それは少なくともイエスズ会の神学の本に書いてあると。そして、キリストに神の世界の秘密を人間に告げる権利があるのかと問うのです。問う資格なんてないということです。

それをするのは神秘主義者の異端だとされている。お前がやったのは、奇跡のお告げだが、それはすでにこの世紀のものではない。人々はいつの時代も自由を求めたが実際にはその自由を我々の足元に捧げたのだ(統治システムの話だと思います)。お前の望んでいたのはそのことだった。

そこでアリョーシャがまた口を挟みます。「全くわからない」と。大審問官がキリストをからかっていると思っていた。でも今ある世界の自由は、隷属するシステムの中の自由でしかないとイワンは言っているのです(ロシア革命以前のロシア社会は絶対王政だった)。これは、今の時代にも言えることだと思います。よりわかりやすいのは中国社会の自由とかかつての社会主義国の自由。そのような支配システムがローマ・カトリックに委ねられているということです。

さらにイワンは人間は元々反逆者になるように作られている。反逆者が幸福になれるかと畳み掛ける。イエス・キリストはすでにその警告を受けていたという。キリストは警告を聞かずに、人々の幸福を奪って、あの世に行ってしまい後のことは我々に任せた。だから、今になって我々の権利を奪うのは邪魔者である意外に何者でもない。

その警告というのが悪魔との神との試みで、悪魔がイエスを試して三つの問いを告げ、それをイエスは拒否した。自由(神秘)と天上のパン(奇跡)と権威。それを受け入れることはイエスに取って神を信じてないことで悪魔の口車に載ることだった。イエスは自由な愛を望んではいたが、最終的に神の前でそれを放棄したのだ。善なる神の意志の元で。選択の自由が人間に与えられたその重荷に押しつぶされてしまう。最後に彼ら(大衆は)真理はお前の方にはなく、三つの力の統治者のうちにあると信じている。人間はこの試練に耐えられない。

イエス・キリストの信仰よりも神による統治を望んでいる。それは人間にあまりに多くのことを要求するからだ。イエスの信仰に付き従う者はせいぜい数えられる信仰厚い人だがその他は自由よりも隷属を望むものばかりなのだ。そして、お前のような奴が社会を混乱させる。もはや我々は悪魔についているのだ。神の信仰なくして、奇跡と神秘と権威望んでいる。世界の統合の欲求は、神のものではなく、悪魔に委ねられた。偉大な征服者たち、チムールとかジンギスカンとか(反キリスト教だけど)ナポレオンとか。

お前の自由とやらは隷属する民に混乱しかもたらさない。我々のパンを求めることは、石をパンに変える奇跡でもなく、彼らの手にしたパンを奇跡なしに新たに分配しているのだ。彼らは我々からパンを貰うのが嬉しいのだ。

羊の群れをバラバラにして、勝手な道をつくり迷わせているのは誰なのか?羊は我々の前にふたたび集まり服従する。永久に。彼らにふさわしい幸福を与えているのは我々なのだ。

アリョーシャはそれはローマ・カトリックの一番悪い部分で、ロシア正教は違うと主張する。大審問官はイワンが作り上げた幻想だと。

その後で老審問官の過去を明らかにし、彼も昔は貧しく物質的幸福よりも愛を信じていたのだと。その結果彼は神より悪魔を信じるようになった。それが彼の秘密だイワンが言う。

老審問官の沈黙のあとイエス・キリストがキスをする。イワンはカラマーゾフの力によって「すべては許される」と思っている。ある年齢までは(30歳まで欲望のままにということなのか?)。アリョーシャはイワンにキス(イエスのキスとは違う意味を持つ)をして別れていく。しかし、イワンの心の方が揺れてしまう。アリョーシャの愛を感じてしまったのか?




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