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被差別民は忍者だったかも?

『差別の民俗学』赤松啓介 (ちくま学芸文庫)

「柳田民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在をみとめないことだ。いつの時代であろうと差別や階層があるかぎり、差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ風俗習慣をもっているはずがない。」すべての底辺、すべての下層からその民俗を掘り起こし、人間存在の根源的病巣「差別」の起源と深層構造に迫った、民俗学の巨人・赤松啓介のひとつの到達点。人間解放の原理、平等原理に貫かれた著者のまなざしは、限りなくあたたかい。

『カムイ伝』を読んだ後に、ふとこの本を買ったことを思い出したのだ。差別の構造が重層化されていると思うのは、天皇制の存在だ。この本にも天皇制が我々の「心のなかに」、強固に存続しているのか?と疑問を投げかける。

近頃話題の皇室の結婚問題も戦前に戻ったのかと思うぐらいに、世間が個人の自由な結婚にあれこれ意見を言う(結婚反対デモって?シェイクスピアの国かよ!)。皇族や華族を敬うのも被差別民を差別するのも裏返しの構造なのだ。そして、NHKの「ファミリーヒストリー」も家系を辿っていくにしても、上流階級だろうと思われる(番組を観てないのではっきり言えないが)。被差別部落の家系は、絶対に流さないだろう。それは、差別ではないのだろうか?

片山さつきが夫婦別姓問題に寄せて「私はそうすると『ファミリーヒストリー』みたいな番組が作れなくなって(戸籍がなくなると)つまらない国になるなと私は思う」。こんな国会議員がいる国だ。

人間差別の回想ースジを中心にしてー

「スジ」というのは、何々の(血)スジという言い方で差別される者。最初は病気の血筋が、例えばらい患者を出したとか良くない血スジを言われたが、それが部外者(在日朝鮮人)や部落出身者に対して言われるようになる。

実際に被差別部落が「解放令」が出た時に、被差別部落の村では火が付けられ、それを眺めていた村の住民はもっと燃えろと喝采を上げたそうである。「解放令」によって、買い物をするにも自由になり、横暴な者もいたということだが、それで放火することの残酷さ、住民感情というものは、絶えずそういう側面があると思っていたほうがいい。だから、ヘイトクライムは怖いのだ。

その大火事のことを近くに住んでいた柳田國男は、『故郷七十年』でまったく触れなかったと。著者の怒りの原因は、柳田が著者を部落差別したということがあるようだ。実際にはその近くの村にいたということなんだが。部落差別については、そのように戸籍を変えても、興信所で調べてくるという。主に結婚問題が問われるのである。あと就職問題だ。

生きる上で、この2つで撥ねられてしまうことは、貧困問題や社会問題にも影響するだろう。それは、差別される方が悪いのか?未だに平等社会ということを平気で言う人はよく考えてもらいたい。スラム街で下層の者がより下層の者を足蹴にしないと生きているのも辛いという社会。

そうした事件は現実に起きているのだ。河川敷の川崎の少年殺人事件の背景にあったのは、移民問題と貧困問題。

もぐらの嫁さがしー昔ばなしの階級性ー

「もぐらの嫁さがし」という民話に含まれる差別の構造は、上流階級(「天」とされる)を望んでも結婚できないしきたりが民話を通じてなされているという構造。「鶴女房」や「狐女房」などの動物で喩えられるトーテムの社会の仕組み。動物神は、異教徒なので、それを支配した人神(一神教)が生み出す差別の構造だ。

そういう民話が教科書に載っていることで、差別の構造を作り出す。戦時に「桃太郎」がプロパガンダとして使われたことなどを思い出す(芥川や太宰はそれをパロディ化したのだが)。

その民話話と共通する芝居になる伝承の男女間の恋愛劇は、遊女と被差別部落の若者が結婚出来ない悲劇を近松的な話として伝わっていた。被差別部落出身の遊女は身請けして貰うのは一般人でないと身分が変わらないとする。「お里がばれた」という悲劇。

村落社会の民族と差別

著者の実体験からの「郷土研究」。共産党講座派だったことから、戦時は警察にマークされる身だった。共産党自体が壊滅状態で(立花隆『日本共産党の研究』)、著者は行商としてぎりぎり生活が出来る程度に潜伏しながら民俗学研究の実地研究というべきフィールドワークをしていく。行商の為に山などの峠の茶屋で、情報を得たり、時には泊めてもらったりして、日本には常民(柳田國男が提言)の他に移動しながら生活していく人々を見出す。

彼らは常民よりも被差別部落や祭祀などの人が多い。定住して生活が出来ないので行商をしながら生活をしていく。その彼らは国道よりも裏街道をよく知り警察や国家権力から逃れて生きていた。その彼らを泊める駅近の民宿ではなく山の峠の茶屋(民宿形態ではなく、アジト的な拠り所)で一夜を過ごし、その茶屋をやっているのが未亡人とかなので、一夜を共にするのだ。そうした中で村社会の中にある性風俗の話を聞き書きする。

例えば盆踊りが男女の性交渉の場なのだが、よそ者を受け入れる地域と受け入れない地域があるという。また受け入れても後家さんや未亡人としか出来なかったり、性の通過儀礼としての夜這いや、成人式(現在のものではなく、元服に近いもの)は、14歳ぐらいで褌を締める儀式に親戚の叔母などが褌をプレゼントし、性教育するという。まあ、逆の例もあるので、それは今では通用しないことなのだろう。

ただ戦時派の著者は、そういう性風俗を肯定的に捉え、そういう村落共同体の儀式を禁止したが為に、遊楽とかの売春宿ができるという意見である。例えば青年会や消防団の集団買春などは、その名残なのであろう。

そういう村落共同体的なものは、国家や権力で統制してもなかなか無くならないものだという。そういう精神構造で育ってきているからだ。外部を知らず村社会の中で育む精神構造を変えるのは難しい。

と言っても著者は部落開放運動をやってきたものだ。それでもそうした「しきたり」(掟に近いのかも)が彼らを生かしているのだ。それは柳田国男がいう常民ではなく、常民からは排除される者のしたたかな生き方。

あるいはハンセン病患者が村から排除されて、お遍路さんになる場合も通常の道ではなく彼ら専用の裏街道があるという。また彼ら専用の寺もあるのだ。

そうした隠れながら生存している者、例えば忍者となるものはそういう存在だったのかもと思うのだった。柳田国男もけっして彼らを見なかったわけではないとおもう。山人というサンガに近い人々がいることは知っていた。ただ彼らの多くが被差別民だったということだ。

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