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老子は言葉の精神安定剤、莊子は睡眠剤

『老子・荘子 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 』野村 茂夫 , 谷口 広樹 (イラスト)(角川ソフィア文庫)

老荘思想は、儒教と並ぶもう一つの中国思想。「上善は水のごとし」「大器晩成」「胡蝶の夢」など、人生を豊かにする親しみやすい言葉と、ユーモアに満ちた寓話を楽しみながら、無為自然に生きる知恵を学ぶ。

『老子』

今の状況を無為に過ごす安定剤にはなるかな。欲望はできるだけ小さく。頑張らない。なるようになる。無為自然の心持ちで。

無為は誰でもできそうだけど自然がない。都市部で生きるにはある程度蓄えがないと無理な話だった。現実的に。田舎がある人はそういう暮らしが出来るのかな?自給自足のような。ただどっちみち呆けるが勝ちみたいな。これが一番無為自然。

第一章(道の世界と名のある世界)

道とは名付けられない大きなもので、仮に渾名で呼ぶとするなら道というべきものだという。天と地の区別をしないその境界を玄という。玄は撚り糸を束ねて染めたもので、糸を撚って黒に染める。次に赤に染めると赤と黒が捻れるように混ざり合うそんな境界の色を玄という。幽玄の玄というのこの色のことだそうで。物事を区別するとそれだけ労が多いということらしい。白はまっさらということで道教はそれも尊重している。

第十七章(君主はおるだけ)

無為という何もしない行為の自然状態でおること。アナーキズム的な老子です。いろいろやろうとして失敗する政治を見るとそれが正しいかもと思ってしまう。

第四十一章(大器は晩成)

一般に晩年になって成功を収めるの意味に取られますが道教では、「真の大器は、永遠に完成することがない」の意味らしい。完成するものは真の大器ではなく、それだけのものだということ。未完成の大作ですね。

第四十八章(無為にして為さざるなし)

人間素のままでいるのが欲望につかれずいいという。学ぼうとするとそれだけ欲が出てきりがないということらしい。それでも人間は欲を持ってしまう。それならば呆けてしまうのが一番無為なのかと考えてしまう。

第八十一章(信言は美ならず)

まことのある言葉は美しくなく、美しい言葉にはまことはない。真善美はまやかしだという。言葉は人工的なものでそれだから美に取り憑かれるのでしょう。言葉で飾らないで自然のままでいい。

『莊子』

「莊子」の方は物語的に語るのがアフォリズム的に語る「老子」との違いですかね。「莊子」の世界はファンタジーがあります。

大鵬の飛翔(逍遥遊編)

巨大な海にいる魚(鯤こん)が姿を変えて大きな翼を持つ鳥(鵬ほう)になる。この大鵬が海が荒れ狂う時に南の暗い海に行くという。天の海だという。大鵬は天の海を目指し逍遥し羽を休めるという物語形式の始まり。

朝三暮四(斉物論編)

よく知られた四字熟語ですね。莊子にはこのよう四字熟語的なことわざが多いです。これは猿に朝四暮三の餌を上げると言ったら不平を言ったので朝三暮四にしたら猿たちは喜んだという。本来の意味は数に惑わされるなという意味らしいですが賢者が遇者をごまかす意味になってしまったようです。「斉物論」とは「万物斉同」の莊子の思想の柱で、真実の姿は一つでみな同じという根本思想。

胡蝶の夢

これは有名な話ですね。夢か現か現か夢かという李白の漢詩に「胡蝶の夢」のヴァリエーションがあります。

春日 醉ひより起きて志を言う
世に 處(を)るは 大いなる夢の若(ごと)し
胡爲(なんすれ)ぞ 其の生を勞せんや
この所以(ゆゑ)に終日醉ひ
頽然(たいぜん)として 前楹(ぜんえい)に臥す
覚め来って庭前を盼(なが)めやれば
一鳥 花間に鳴く

物の変化は現象面でしかなく万物は様々な現れであるが一つという。万物斉同の世界に遊べということらしい。

無用の用(人間世(じんかんせん)論)

弟子がこんな大きな木を見向きもしないのは何故かと尋ね、師匠が役立たずだから切られない大木と言った。その夜に夢で大木が師匠にお前に取っては役立たずだが、人間に切られ短命に終わった木を見てきたんだ。だから俺は大木になって役に立つと言ったとか。

自然界に存在するものに無用もなく、ただ人間は自分中心にしか見られない。役に立たないような暇人を散木とか散人という言葉になったそうです。老荘思想を持つ人のようです。

莫逆の友(太宗師編)

干将と莫耶の物語は、今昔物語にも転用された。

輪篇問答──書物は貴ぶに値するか──(天道編)

中国の偉い人が車の輪を作る家僕に殿の読んでいる書物は役に立つのか質問され、言葉は昔の人の残り滓と答える。職人は実際のモノ造りは言葉に出来るものではなく、試行錯誤や親方の見様見真似で出来るものだという言葉に対しての不信感を表す。読書しているのに、それはないよなと思えるけど、まあ思考と現実が必ずしも一致するものでもない。

莊子、恵子の墓を過ぎる(除無鬼編)

莊子と議論を重ねた恵子がなくなって、莊子は言葉を発しなくなったという。莊子は死も生も同一のものとする思想があるのですが、やっぱ死は悲しいものなのか。妻が死んだ時はおちゃらけていたんですけど(「莊子の妻死す(至楽編))。なお最後の言葉は「莊子の死(列禦寇〈れつぎょうこう〉編)」では天と地が私の棺だから、棺はいらんと言っていたとか。


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