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猫の手を借りて歌うや「ねこふんじゃった」

猫写真が多いこの頃。天気のせいもあるのかな。目覚めるのが昼過ぎになるともう出かける気力がなくなる。昨日は家で俳句と詩のレッスン。短歌もやらなきゃと思ったが、だれた。3つ一緒でもいいのかなと思うとそれぞれ別にやるのはどうなんだろうと思ったり、最初は短歌から俳句が分離したんだ。そして詩へと。そのときもやることが多くなって、一日では出来なくなったので、別項を独立させたのだった。詩は好きな詩から本歌取り(本歌取りになってないけど、ミイラ取りぐらいか?)からやるので毎日は出来ると思う。短歌と俳句もこの形式に戻すかな。雑誌を読むと思ったよりやることが多くなる感じだ。学ぶべきことが多いんだけど、それだけ内輪になっていくというような。このへんの塩梅が難しい。

映画は『ピアノ・レッスン』を観た。思っていたより面白かったかな。最初に観たときは、植民地の扱いが醜いかと思ったのだが、ピアノが文明の利器であり、それによって失語症の表現であるというのから、言葉を伝える大切さに気がつくヒロインなのか。それが愛の言葉というロマンチシズムなんだろうけど。音楽、情景、役者が素晴らしい。

『源氏物語』はウェイリ版を。橋本治より読みやすいのはどういうわけか。橋本治は紫式部とは見方が180度違うというか男(光源氏)から見た『源氏物語』の世界だから、モノローグが独特(現代小説)みたいなのだがウェイリー版は異文化という客観視しているところがあるからか小説でも物語風なのかな。明らかに文化とが違うのだが、その違いを楽しめる。海外小説で原文を読まなくては駄目だというような意見があるが、そうとも言えずむしろ違いを知るには翻訳の方がわかりやすいというのがあるのかもしれない。翻訳者もその道のプロであるのだから気づきもあるだろう。

文学はもともと言葉に出来ないものを伝えようとするのだから、言葉が理解出来たからわかるというものでもない。例えばポーの小説なんかアメリカでは理解されなかったが、ボードレールなどのフランス詩人がポーを理解しようと飛びついたのだ。その結果フランス象徴詩が生まれる。そういうことなんだと思う。小泉八雲は日本語を理解できなかったが、幽霊の存在は信じることが出来た。それは日本語には出来ない感情だということ。

そうした文化の衝突が新たなものを作り出していく。『ピアノ・レッスン』でも愛の言葉はピアノの言葉ではなかったのだ。今日の一句。

猫の手を借りて猫踏んじゃった  宿仮


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