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散歩のススメ、歩くことの精神史

『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット (翻訳)東辻 賢治郎

現代アメリカでもっとも魅力的な書き手のひとり、
レベッカ・ソルニットの代表作、ついに邦訳!
広大な人類史のあらゆるジャンルをフィールドに、
〈歩くこと〉が思考と文化に深く結びつき、
創造力の源泉であることを解き明かす。

アリストテレスは歩きながら哲学し、彼の弟子たちは逍遥学派と呼ばれた。
活動家たちはワシントンを行進し、不正と抑圧を告発した。
彼岸への祈りを込めて、聖地を目指した歩みが、世界各地で連綿と続く巡礼となった。

歴史上の出来事に、科学や文学などの文化に、なによりもわたしたち自身の自己認識に、
歩くことがどのように影を落しているのか、自在な語り口でソルニットは語る。
人類学、宗教、哲学、文学、芸術、政治、社会、
レジャー、エコロジー、フェミニズム、アメリカ、都市へ。
歩くことがもたらしたものを語った歴史的傑作。

歩きながら『人間不平等起源論』を書いたルソー。
被害妄想になりながらも街歩きだけはやめないキェルケゴール。
病と闘う知人のためにミュンヘンからパリまで歩き通したヘルツォーク。
ロマン主義的な山歩きの始祖・ワーズワース。
釈放されるとその足でベリー摘みに向かったソロー。
インク瓶付きの杖を持っていたトマス・ホッブス。
ラッセルの部屋を動物園の虎のように歩くウィトゲンシュタイン。
刑務所のなかで空想の世界旅行をした建築家アルベルト・シュペーア。
ヒロインに決然とひとり歩きさせたジェーン・オースティン。
その小説同様に大都市ロンドン中を歩きまわったディケンズ。
故郷ベルリンを描きながらも筆はいつもパリへとさまようベンヤミン。
パリを歩くことをエロチックな体験とみなしたレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ。
歩行を芸術にしたアーティスト、リチャード・ロング。


歩くことはいつだって決然とした勇気の表明であり、
不安な心をなぐさめる癒しだった。

図書館本なので駆け足で読んでしまったが、本来はゆっくり歩るく速度で思索しなが読む本である。ここに現在最も注目されるソルニットの思想の精神史が語られている。

それは、現在の都市部では人が歩く場所が減らされているという。土地が所有され立ち入り禁止になり、あるいは関係者以外進入禁止だったり、道路は車のためのもので遊歩道も整備されていない。おまけにベンチは休む為というより街のインテリアとして飾られているだけだ。

公共空間はますます狭められ散歩するのも勇気が必要。真夏は、熱中症になるので昼間は、散歩はしてはけません。その中で公園の樹木は伐採され50℃以上になるアスファルトが敷き詰められる(誰のために?)。

あるいはコロナ禍によっての管理社会が生んだ引きこもり生活。ますます人々は自由に歩かなくなり、思考の囲い込みが行われている。公共空間はますます狭められ散歩するのも勇気が必要。

地方はまだ散歩が気持ち良い場所が多少ある。車のための道路ではなく、遍路と呼ばれる道がある(最近四国に行ってきたので)ただそういう道も観光化されて観光バスが通れるようにするのだろう。遍路で歩く人の脇を車遍路が追い越していく。もともとは道路なんてなかったはずなのに。歩くなんて馬鹿らしい。観光バスでお気軽に遍路すればいいのか?

思索の足取り

ソルニットは歩くことによって思考する速度を考察する。車やインターネットでは得られない思考の快楽。それはゴールが予め決められた歩きではない過程としての道。様々な出会いと触れて思考が刺激されエゴイズムと化していかない思考。ルソーの歩行も孤独を抱えながら誰かと出会う旅だった。

ルソー『告白』は、放浪生活からヴァラン夫人によって山村での生活と自然哲学への芽生え、所有欲を持つのではなくただ自然を享受することによってルソーの歩くことの精神史が育まれていく。

やがてその思想は民政思想からフランス革命へ影響を与えていく。その思想はガンジーからキング牧師に受け継がれ恩寵を実現させるデモ行進として現在に受け継がれていく。(その一方でワンダーフォーゲルやナチスのボーイスカウトなど規律と訓練による軍隊的な行進を生み出すことでもあるのだが)

戦後、高度資本主義の中の欲望によって目的地はAIシステムに選択させ、オートマチックに辿りつける。果たしてそのたどり着いた場所は幸福なのだろうか?

そして私有地や公共の場所から余所者を排除していく思考がある。「オレの土地であり道だ」国境線に壁が設けられ「余所者は入ってくるな」「アイツはどうも怪しい」「他所の国のやつらがオレの国を破壊しようとしている」「この国を守らねば、武器を持って奴らの侵入を阻止しなければ」

そうした国家観に反旗を翻すレベッカ・ソルニットの歩くことの精神史は、思想史から文学から社会運動から様々な歩行の歴史を見ていく。

庭園から原野へ

もともとはキリスト教の中に教会の庭園を徘徊して、言葉よりも絵や彫刻によって信者にキリスト史を学ばせる習俗があった。その中に聖地巡礼や修道僧らが自然の原野に思想を求める傾向が出てくる。

ワーズワースはイギリスの代表的なロマン派詩人であるが、妹との登山を通して自然から学び教えること(妹の存在の重要性、当時は女子は家に閉じ込めておくものとされていた)で思想を深めていった。

そしてその自然主義思想は文学や思想(自由主義思想)に大きな影響を与えた。

しかし、その影響を受け継ぐウォーキング・クラブがやがてブルジョワたちの余暇の楽しみとして、山岳登山(先進国の探検家が現地のヘルパーを従えて初登頂を目指す。山は信仰の場所からスポーツの場へと変化していく)や郊外へのハイキング(『失われた時を求めて』のパリから避暑地への旅行はブルジョワジーが先導して、風景を「発見」していく)となって、産業資本主義の余暇として自然は囲い込まれる。

街角の人生

産業都市は分節化して、空洞化していく。郊外に棲む労働者と自動車、電車で通勤する産業地で、それまでの歩くことはジムやトレーニングセンターの健康への対策として、余暇としての地方の観光地と整備された中で行われる。そこでは決められたコースによって、決められた短い余暇を過ごし、仕事場は昼間は過密都市になるが夜になると閑散化して犯罪都市が増えていく。その中で政府はより管理社会を築き上げる(ニューヨーク・シティなど高度資本主義社会の誕生)

そうした中で囲い込みが行われ、男たちの仕事の余暇として娼婦街が作られ、女たちは昼間のショッピングモールで消費生活を続けるとしたベンヤミンの考察。娼婦街から詩人のボードレールやシュールレアリズムの詩人たちが歩行への芸術を開花させていく。そこは孤独と酩酊と愛への幻想。

このあたりのことは横浜を散歩していると見えてくるような気がする。横浜みなとみらい地区の観光地化と開発の一方でかつてあった娼婦街の伊勢佐木町の路地裏は整備されていくのだ。そこを追い出されたメリーさんが幽霊のように横浜駅に出没したのは、すでに過去の話だ。そうした都市は日本のあっちこっちにあると思う。

道の果てる先に

ジムやスポーツセンターの有酸素運動は、「シーシュポスの神話」の都会版だというソルニット。精神は郊外化されて車や電車社会のドアからドアと化し、歩くことはほとんど無くなっていく。駅から5分以内の場所に棲むことがステータスとされていく。そして、階級社会によって分化されていく街が生まれる。

マンションへの私有地は立ち入りを禁止され、ベンチは街のデザインとして休む場所ではなく、貧者を追い出していく都市型社会に警告を与える一方で、歩くことによる運動が再び注目されるのも事実だ。それは権力に対する自由化へのデモと化し新たな共同体が生まれ管理社会に抵抗している。

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