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たぬきち鍋

 東京に住んでいるいとこがシェアハウスで暮らしている。武蔵小山という駅から歩いてすこしのところにある一軒家で、東京に来たついでに遊びに行く約束になっていた。十五時に行くね、と伝えてあったのに、着いてみたら当のいとこはまだ帰宅していなかった。玄関のベルを鳴らしたら、住人の男の人が出てきて、いとこの名前を伝えると、中に上げてくれた。リビングの広い机にパソコンを広げてその男の人は何か作業をしていて、わたしはその斜め向かいに座って、いとこにラインを送った。すこしして、十六時だと思っていた、急いで帰る、という返信が帰ってきた。十五時って言ってたんですけどね、とその男の人に話しかけると、まぁうちの住人の人たちさ、わりとあんまり時間に厳しくないほうだから、と驚く様子もなくその人は言って、また視線をパソコンに戻した。電車の中で読んでいた文庫本を読んで待っていようと思い、鞄から本を取り出そうとすると、パソコンに向かっているその男の人の背中の方に、変なものが置いてあるのが目に入った。ステンレス製の大きな鍋、寸胴というのだろうか、ラーメン屋さんとかによくあるようなやつ、あれがテーブルの上に置かれていて、その中にすっぽりと収まるように、紫がかった青色のくまかなにかの大きなぬいぐるみと、五〇〇ミリのペットボトルくらいの大きさの鳥のぬいぐるみが入っていた。おまけに、大きなほうは、お風呂につかっているみたいなポーズをしていた。その妙にシュールな光景が気になってしまい、本を読もうと思っていたことを忘れてしまいそうになった。その他にも、なぜか電子レンジが二個も重ねて置いてあったり、壁に四九八〇〇円と書かれた自動車の修理代の領収書が貼り付けてあったり、あたりを見回すと変なものがいろいろとある部屋だった。コーヒー飲む? 突然、パソコンに向かっていた男の人が顔をあげてそう言った。あ、はい、ありがとうございます、頂きます。わたしは小さく頭を下げた。ちょっと待っててね。男の人は席を立つと台所に向かった。電気ケトルをセットする姿が見えて、それが終わると彼はまたリビングに戻ってきた。豆をはかりで量ってから、電動のミルで挽く。大きな音がして、豆が粉になった。途端に、独特の香りが漂ってきた。それはコーヒーの香りとも少し違っていて、コーヒーの豆の香り、だった。数分して、コーヒーカップをふたつ持って彼は席に戻ってきた。ブラックで大丈夫? わたしは小さく返事をして首を縦に振った。ありがとうございます。わたしも家ではよくコーヒーを淹れるが、彼が出してくれたコーヒーは少し浅めの深入りで、バランスの良い味わいだった。お店、やってるんでしたっけ。いとこが、同居している人がコーヒー屋さんをやっている、というようなことを言っていたのを思い出して聞いてみた。うん、三軒茶屋でお店やってるんですよ、最近は焙煎機もお店に移して、カフェっていうより焙煎所、っていう感じなんですけど、店内でも飲めるから、近くに来たりしたら、よかったら。そう言いながら彼は席を立って、壁沿いにあった引き出しからお店のカードを取り出してくると、わたしに差し出した。ショップカードにはくまの絵が描いてあった。三軒茶屋というのがどのあたりにあるのか、わたしはよくわからなかったが、なにかで聞いたことのある地名ではあった。コーヒーを殆ど飲み終わる頃、わたしは意を決して聞いてみた。あの、あれ、なんなんですか。彼の背中にある、さっきのぬいぐるみの入った大きな鍋を指差す。あー、あれね、あれは、たぬきちとみかおだよ。おっきい方がたぬきち、小さいほうがみかお。あれはりんごとみかんだよ、とでも言うような軽いノリで彼はそう答えた。たぬきなんですか? くまかねこだろうと思っていたので、わたしは少し面食らった。うーん、ねこじゃなかったかな、よくわかんないなあ、あいつさ、末端冷え性だから靴下履いてるんだ、だから足だけ白いんだよ、面白いよね。そのたぬきだかねこだかくまだかよくわからないやつは、鍋のなかにすっぽり身体が入っているので、その足元は全く見えない。何で鍋に入ってるんですか? 最大に疑問をわたしは訊いた。うーん、今日の夕飯なんだよ。この人ならきっとそう言いそうだなという、想像していたとおりの答えが帰ってきたので少しだけ面白かった。靴下を履いているというたぬきちの足元を見てみたいとわたしは思った。(2018/01/08/21:45)

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