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つれづれ杏子 #015

『えっちなのをかきたいとおもいます』

のっけから失礼いたしました。でもほら、けっこう嫌いじゃないでしょ?ね?

性描写をしたい。と今けっこうな熱量で思っている。けれど小説がかける頭じゃない。困ったな。ということで想いだけ冒頭にぶつけておきました。てへぺろ。

書き始めてみるとつらつらとキーボードを叩く指が動くものだなぁと自分で少し驚く。ここのところフォローしている人たちのnoteを読めていない。書くことからも遠ざかっていた。メンタル、調子良くないってよ。

自転車の漕ぎ出しと一緒だなぁ。最初にぐい、と踏み込めば進むものなのだ。それが踏み込めない、もしくは踏む力が弱い、迷いがあるから、進まないような気がする。

でもわたしは残念ながら双極性障害の生涯の伴侶なのだ。(別に掛けてないつもり)全力疾走することは危険と見倣される。いつも6~7割稼働、みたいなのが多分いい。だけど時々やっぱりね、君を自転車の後ろに載せてブレーキしっかり握りしめてゆっくりゆっくり下る以外の選択肢を選びたいときもあるのだよ。にんげんだもの。

過去に自身の半生について書いた『メンタルサーファー』という記事がある。どうしたってわたしのテンションには波がある。うまく乗れればそれでいい。溺れることもある。そしたら藻掻いて水面を死にものぐるいで目指して息を吸えばいい。

…のだけれど。本人は。

周りがそれをどう捉えるか、がけっこう厄介だ。

わたしの夫イツキは躁転したわたしがやらかした酷いことに大変心を痛めたし、再発を防ぐために日々わたしのSNSでの言動、家での様子など気にしている。わたしはときどきそれがとても窮屈になる。

双極性障害の人の周りの人からしたら、『低め安定』、つまり少し鬱っぽいけどなんとか生活できる。くらいの方が安心感が強いし扱いやすいから都合がいいらしい。

けれども本人は『低め安定』の人生なんてまっぴらごめんなのだ。なんでほんの少しの憂鬱と仲良くして動きづらいなぁと重たい体を動かす日々が推奨されなきゃいけないんだ。わたしたちの人生はわたしたちのもんだろが。と言いたくなる。もちろん、躁が強く長く出れば社会的信用などに関わるから上がりすぎはよくないのはわかっている。

わたしは軽い躁に傾き始めると普段やらないところまで掃除できる特技がある。(あえて特技と呼ぶ)でもそれを100%やりたいところまでやってしまうと後日鬱がやってくるか、そのまま放っておくと躁転して危うい状況になり場合によっては入院を余儀なくされる、なんてこともある。

だから「ああ今日はちょっと動いちゃったな」って日は、ちょっと一段落したところで「ここからは手を抜くぞ」「なるべく休むことを心がけるぞ」と自分に言い聞かせてゆるゆると過ごそうと努力する。そうやって自分の波乗りスキルを上げればきっとメンタルサーファー準1級試験とか通れそうじゃない?


生きるのは、わたしだ。

って、言ってもいいんじゃないかなって最近よく思ってる。わたしが主人公であるわたしの生き様、主人公らしくしたっていいよね。今まで周りを気にしすぎた、と思う。やっとわたしは自分の命を自分のために使うことを、自らに許すことができそうで、わくわくしているんだ。


…なーにがえっちなのを書きたいじゃ。真面目か。(根は真面目です

倍にして返すくらいの文章を書くよ!!!!!