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13/温泉のある田舎町ラノーンで最後のタイ移住生活

翌日、まず最初にしたことは、船で魚を捕りに行くことでした。

昨日の船に乗って5人で釣りに出かけます。

釣りといっても、ただ糸を垂らすだけです。

本当に釣れるのだろうか?

結局、2時間以上頑張ってはみたものの何も釣れませんでした。

仕方なく戻ると、Jeeがバンガローの前の岩場についている牡蠣に似た貝を捕っていました。

半自給自足状態です。

お客さんの来ない閑散期は、収入もないのでこうやって食べ物を得ているようでした。

それが終わると、バンガローの裏へ行ってココナツを取ってきます。

皮をむいてココナツを削って料理に使うココナツミルクを作るのです。

これが結構な重労働です。

午後になって潮が引くと、今度は裏側の湾へ行って潮干狩りをします。

タイではポピュラーな貝で、アサリをぷっくらさせたような二枚貝を捕って夕食に使います。

お米やお肉や飲み水などは、ラノーンから来る船に乗せて運んでもらっていました。

Peaの実家が船着場のすぐそばにあり、そこで必要な物を積んでもらっているようでした。

この島のAow Lek海岸一帯は、Peaの家族が所有しているとのことで、この海岸沿いに二軒のバンガローと一軒の家がありました。

一軒目は、お兄さん夫婦が経営するバンガローで、二つ目がここ。

そして、もう一つがお姉さんとその友達とで平屋の家を建てている最中でした。

行く行くそこを、日用品やちょっとした食べ物や飲み物を扱う雑貨屋にするとのことです。

それに、Kの作っていたGreen Banana。

PeaとJeeのやっていたAow Lekバンガローはなくなってしまったけれど、Grenn Bananaは今でもあります。

この4ヶ所が何百メートルかおきに点在していました。

そして、その先の湾の突き当たりにBig Houseと呼ばれていた大きな家と数棟のバンガローがありましたが、ここだけはPeaの家族の所有ではありませんでした。

船で木材やその他の材料を運び、当時3000万円以上をかけて立派な家を建てていたので、皆んなからBig Houseと呼ばれていました。



都会で育った私にとって、そんな何もない大自然の島での生活は、ある意味全てが刺激的でした。

何もなかったけれど、自然に囲まれていました。

一度、朝ベットから起きて足を床につけようと思った瞬間何かが足の裏に触れたので、ギョっとして見てみると蛙でした。

シャワー室の水の流れる穴から入ってくるのです。

ほうきで掃除しようとバックパックを動かすと、バックパックの下から出てきたり。

元々は蛙がとても苦手でしたが、この頃になるとだいぶ慣れてきて、そのままほうきでバルコニーから掃き飛ばします。

出しても出しても入ってくるので、仕方なくシャワーの穴に石を置いて、使う時だけ外すようにしました。

シャワーを浴びている最中にも入って来るんじゃないかと、気が気でありません。

またある時は、朝起きたら、バンガローの構造上格子のような木の出っ張りがあったのですが、そこに蛇がいたこともありました。

あまり大きくはなかったけれど、さすがに自分では退治できないので取り除いてもらうようにお願いしました。

他の島でもここまでのことは経験したことがなかったので、チャン島は本当にネイチャーな島でした。

毎日夕方になるとシャワーを浴びてから、バンガローの目の前に沈む夕陽を眺めて、暗くなると蝋燭をつけて部屋で過ごします。

朝は朝日が差し込んでくると、部屋の中が段々と明るくなってきて自然に目が覚めるので、まず洗濯から始まります。

水も雨水を貯めたものを使っているので、季節によっては大変貴重です。

大きなたらいに入れて足で踏みしめながら洗います。

一頻ひとしきりやることが終わったら、Green Bananaへ行って手伝ったり、貝殻を拾いながら海辺を散歩したり。

飽きると戻ってきて、本を読んだり昼寝したり。

たまにBig Houseに遊びに行ったり。

最初はもてあましてしまって、どう過ごしていいかわからないほどでしたが、慣れてくるとそれもそれで楽しくなってきます。

欧米人が何もない島に長期滞在する気持ちがわかったような気がしました。

ここでは、たとえ酔っ払ってビーチで寝ていたって大丈夫なほど、島にいる人皆んなが顔見知りでした。

朝になると潮が満ちて、海岸線ギリギリまで来るので実際には寝ていられないけれど、、、。

チャン島での生活はスローライフそのものだったけれど、インターネットもないので10日に1度くらいでラノーンに行ってはメールチェックをし、必要なものを買って戻って来るのでした。


ラノーンに行くとメインの通りにあるカクテルバーで飲んで、KIWIに泊まって帰ってくるのが恒例になっていました。

カクテルバーといっても、屋台のようなカウンターが道路沿いに張り出していて、4人も座れば一杯になるカウンター席と、店内に5人ほどが座れるテーブル席があるだけの小さなバーでした。

また、ラノーンには温泉があるので、夜温泉に行っては洋服のまま入って濡れたままバイクで帰って来ます。

ちなみに、その頃のタイのローカルな人たちは、海に入るのも温泉に入るのも皆んな洋服のままでした。

毎回夜遅くに行くのでほぼ私たちだけの貸切だったし、濡れたままでも誰も気になんかしていないほど田舎でした。

どうせ洗濯しなくてはならないので、そのままシャワー室へ直行です。

今では観光客も増え、ホテルも沢山でき、温泉も立派な施設になったようですが、この頃は宿もほんの数件あるだけで、バーも唯一カクテルバーがあるだけの本当に素朴な町でした。

その素朴さがとても居心地よかったのです。

ラノーンに住んでいる外国人もKIWIのオーナーと、その友達のイギリス人が英語教室を開いているだけでした。

チャン島に飽きるとラノーンに行っては1、2泊してまた戻ってくる。

たまにラノーンの美容院でトリートメントをしてもらったりなんかも。

そんな生活を続けている頃、ビザの期限が迫ってきます。

ラノーンはミャンマーとの国境なので、ラノーンの入国管理事務所で出国手続きをしてから船に乗ってミャンマーの国境を目指します。

途中で、海上に浮かんでいるミャンマー側の税関事務所によってから、コートーン(ミャンマー側の国境の町)に向かいます。

陸に上がるとそのまま入国管理事務所にパスポートを預け、代わりに48時間の滞在許可証を受け取ります。

この当時は、48時間以内ならビザがなくても入国することができました。

あまり遠くまでは行けませんが、近くを観光することも可能だし、1泊することもできます。

今はもっと長い期間可能になったようですが。

私にはミャンマーがあまり肌に合わず、一度だけ国境の近くのお寺を観光したのと、ブラブラと数件のお店を見て廻っていた時に見つけた、木製のチェスを買ったことがあるだけで、その後はタイ側のビザを取るためだけに何度か訪れました。


この頃になると、雨季も終わりチャン島にも旅行者がちらほらと増えてきます。

お客さんでバンガローが埋まると、母屋でJeeと一緒に寝泊りしていました。

夕食時の忙しい時間になると、レストランを手伝ったり。

そのお陰で、一時はタイ料理が作れるようになったりも。

そして、バンガローが空くとバンガローで寝泊りして一人でゆっくりしたり。

ジョンはラノーンが気に入ったらしく、途中からはほとんどラノーンで過ごしていました。

皆んなが自分の好きなタイミングで行ったり来たりしながら、チャン島とラノーンを満喫しているのでした。

ある時は、数名のお客さんと船でナショナルパークの島にも行きました。

この時の船はさすがにボートではなく、もう少し大きな屋根も付いている船に食べ物や飲み物を積んで1日がかりのツアーです。

国立公園に指定されているので、全くの手つかず状態の島でした。

それこそ絵に描いたような、真っ白な砂浜がずっと続いています。

沖合いでシュノーケリングをしたり、海岸でのんびりしたり。

また、たまにはGreen BananaやBig Houseでパーティーをしたり。

パーティーといっても、三軒のバンガローに泊まっているお客さんと、それぞれタイ人の友達がその日だけ来るだけなので、30~40人程度でしたが、それでも普段何もない島なのでこの時ばかりは皆んなで大盛りあがりです。

こうして、ビザが切れそうになるとミャンマーまで足を伸ばす生活が数ヶ月続いたあと、そろそろ本格的に日本への帰国を考えるようになりました。



この時には、既に借りていたアパートも引き払って、バンコクで知り合ったフランス人の友達の家に居候させてもらっていました。

何ヶ月も住んでいないのに家賃を払うのは勿体なかったので、箱にして5個ほどの荷物をKittiの家に預け、タイ国内を行ったり来たりしていました。

最初の頃は、一旦日本に帰ってからまたタイに戻って来るつもりだったので、戻って来た時に必要な物はそのまま箱に詰めて保管させてもらうことにしました。

Kittiはバンコク郊外の一軒家に叔母さんと住んでいて、部屋も空いているからと快く預かってくれました。

このことで、日本に帰ってきてからよく言われたことがあります。

「そんなのとっくになくなってるよ」とか、「もう売られてるよ」とか。

それを聞く度に、皆んなどんだけタイ人の飲み屋の女の子に騙されてきたんだろうか?と思うことが多々あったなぁ、、、。

結局、その後何度か日本とタイとを行ったり来たりはしましたが、本格的にまたタイに住むことはありませんでした。

フランス人のGregは、日本文化と日本食が好きで、ジャーナリストをしていたこともありましたが、この時はフランス大使館で刊行物を制作する仕事をしていました。

彼は、ジャーナリスト時代にもっと酷かったカンボジアを訪れていたり、アンティークが好きだったりと、色々なことで話が合ったのをきっかけに友達になりました。

普段は朝仕事に出かけると、10時頃にミャンマー人のお手伝いさんがやって来て、掃除や洗濯をして昼食の用意をします。

お昼休みが2時間あるので一旦家に帰って来ると、家で食事をして昼寝してから、また仕事へと戻って行きます。

その後に、お手伝いさんが買い物へ行き、夕食の支度をしてから帰って行きます。

日本の会社員とは違って、とても優雅だなと思えてなりませんでした。

私がバンコクにいる時には、一緒に家でお昼ご飯を食べたり、夜は外へ食事に出かけたり、時には私が日本食を作ったり、逆にGergが作ってくれたり、たまには飲みに行ったり。

その間に、タイ人の友達とも会ったり。

このずっと後になってですが、YingとKittiが結婚することになりました。

二人とも私の大切な友達なので、これほど嬉しいことはありません。

日本に帰って来てからでしたが、結婚式にも出席しました。

私にとってYingは、初めて会った時からずっと大切な友達です。

タイに移住する前は、まさかタイ人の親友ができるなんて思ってもいませんでした。

今でもバンコクに行くと必ず会うし、BTSの駅から歩いて5分ほどのところにコンドミニアムを購入して二人で仲良く暮らしています。

日本と同じように、30年ローンだから大変だと言っていました。


ある時、Yingに言われたことがありました。

日本に帰ろうかどうしようかと悩んでいる頃でした。

「いくらか貯金があるから、もし必要だったら言ってね」と。

要は、もしお金が必要ならいつでも貸すからね、ということです。

そんなことを言われるなんて、考えたこともありませんでした。

一緒に働いている時も、タイ人の彼女の方が私よりもお給料が低かったのです。

タイ人のYingがいなかったら、成り立たなかったことが沢山あったにも拘わらず。

それでも、彼女は一度も文句を言ったことがありませんでした。

もしかしたら、日本に帰ったまま戻って来ないことだってあるかもしれないのに、私のことを信用してくれていたのだと思うと本当に嬉しかった。

勿論借りることはありませんでしたが、異国の地でそんな風に想ってもらえたことは、私にとって生涯を通して忘れられない出来事となりました。

こうして振り返ってみると、本当に沢山の出会いがあり、沢山の方にお世話になったタイでの生活でした。

今でも変わらずに会ったり連絡したりする人もいるし、もう連絡がつかなくなってしまった人もいるけれど、私にとってはどれもがかけがえのない大切な大切な想い出です。

まだまだここには書ききれないことも沢山ありますが、どれ一つとして欠けていたとしたら、全く違った人生になっていたのではないかと思います。

たった1枚のラオスの写真から始まり、沢山の出逢いに恵まれた人生の一瞬ひととき

バンコクを基点に、沢山の出会いと旅と経験を通して、私のタイでの3年半に及ぶ移住生活は終わりを迎えるのでした。


※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。

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