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スーパーカー

今日、ランボルギーニ・カウンタックが走っているのを見た。

多分LP500クワトロバルボーレだろう。

真っ赤で低く、乾いた大きな音をマフラーから吐き出しながら目の前を走りすぎていった。

走り去ってすぐ、なぜか歯をむき出して笑っていた。

久しぶりに無条件に笑顔が出た。


子供の頃、日本ではスーパーカーブームが起きた。

石油ショックでしょぼくれてた国産車と比べたら、桁違いにスーパーなクルマたち。

値段も性能も桁違いのスーパーカーに、当時の子供たちは夢を見た。

まだ免許も持たない子供たちは、バカみたいに低く地面に踏ん張った車達に未来の夢を見たのだろう。

V12気筒の巨大なエンジン、ミッドシップ、上に跳ね上がるガルウイングドア、ポップアップするリトラクタブル・ヘッドライト、くさびのように鋭角にとんがったスタイル。なにもかもスーパーだった。

大人になったらいつか手に入れて乗るんだ。

子供ながら、現実的に買えそうな値段の中古のスーパーカーを雑誌で品定めなんかしながら夢を見てた。

やがて免許を取れる歳になってクルマを手に入れたが、それはスーパーカーではなく、国産のスポーティーカーだった。

現実を知り、手に入れることが可能な車。

それだって夢中で乗り回した。

深夜の首都高環状線、遠征して山の峠道。

夢は現実にシフトして、妥協の結果でも夢中になれた。

そして時は流れ、スーパーカーがどんな機械かわかってくる。

スーパーカーはまともな機械じゃない。

ランボルギーニもフェラーリも、日本の車の生産が機械化され、高度に品質管理されているのに比べたら、呆れるほどどうしようもない、手工芸品のような作りだ。いや、手工芸品、あるいは芸術品か。

ランボルギーニ・カウンタックのボディーパネルなんか、アルミの板を職人が一台一台叩きだすもんだから、全てが微妙に違ってる。

フェラーリBBのコンソールなんか、ベニア板を組み合わせた上にウレタンを乗せてから皮を張っているような代物だ。

どっちみち数が売れるような商品じゃないから、一台一台手作りだし、部品の品質も良いとは言えないから、しばらく乗ればあちこちぶっ壊れて当たり前の機械だ。日本人の当たり前の感覚で言ったら、それはもうまともな工業製品とは言えない代物だった。

だから機械としての車は日本車世界一。

レクサスなんか、信頼性、耐久性、製造公差、どれもスーパーだ。

しかし、スーパーカーは今も色褪せてはいない。

スーパーカーは車を超越した存在だ。

今も昔も、子供の夢を乗せて未来へぶっ飛ぶためにある。

そいつが快音を響かせ通り過ぎる時、笑っちまうのはそのせいなんだ。 



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